シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第20回

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ロストポジション

石沢 賢二(前国立極地研究所技術職員)

1. 道に迷う

 登山者が道に迷って遭難したというニュースはたびたび聞かれます。道に迷うとは、自分がどこにいるのか地図上で同定できなくなることで、ロストポジションとも言います。その多くは、下山時に道を見失い、谷に入り込んで起こることが多いようです。道なき谷を下る途中で体力を消耗し歩くことができなくなります。いったん道に迷ったら、「下ることを止めて逆に登り返すべきだ」と登山の本には書いてあります。どんどん登れば、いずれは頂上に着き、必ず道に出会うのですが、人間の心理としては、「下ってしまえば多少方向はずれていても、いずれ里に出て助かるハズだ」と思い込みがちです。

 山は、尾根と谷からできていて地形が明瞭ですが、南極では様相が異なります。尾根と谷がはっきりしているのは、露岩が多い沿岸部だけで、そこを抜けて内陸に踏み込めば、平坦な氷原が広がり目印になるものは何もありません。図1は、日本の南極基地の位置を示したものです。高さは強調して描いてあります。大陸沿岸部で大陸氷床が急に海に落ち込んでいるのがわかります。こういうところは氷の下の基盤も傾斜が大きくクレバスが発達し危険です(図2)。

図1 南極大陸の地形と日本の基地。高さは強調してある。

図2 基盤地形とクレバス。地形が急に変わるところにできやすい。

 4つの基地の中で露岩上にあるのは昭和基地だけで、他の3つは、厚い氷床上にあり、周囲は平坦な地形です。あすか基地だけは、40~50km南にセールロンダーネの山々が見えるので、視界の良い日には容易に方角を知ることができます。みずほ基地とドームふじ基地は、地形的な特徴物が全くなく、雪面から飛び出たアンテナとかデポした燃料ドラム缶の列などが方位同定の目安になるだけです。こういう場所で迷うのは、地吹雪で視界が悪いときです。もし、自分の位置が分からなくなったときは、動かず、視界が良くなるまで風を避けてじっと待つしかありません。南極でのロストポジションが如何に危険なのか?事故例を基に考えてみます。

2.露岩上の道路とアンテナ

 日本の昭和基地は、草木のない岩とそれが風化した土で覆われていて、自動車が通れる道があります。冬期は雪で覆われてしまいますが、夏になる頃に除雪すれば立派な道路(?)が再び現れます(図3)。道路の幅に沿って赤旗が立てられ、除雪時の目安としています。また、高いアンテナがいくつも立っていて、低い地吹雪の時などにはよい目印になります。

図3 昭和基地の夏季の道路とアンテナ(赤矢印は大型アンテナ)

3.南極大陸内陸部へのルート

 いっぽう南極大陸内陸部は、海氷や内陸氷床は雪に覆われているため道路はありませんが、年間を通して使用する主要ルートには赤旗を立てて目印にしています(図4)。これらのルート地点には個別の番号が割り振られ、地点間の距離や磁方位、GPSによる緯度経度などを記入したルート方位表(図5)を作り、途中のクラックやクレバスなどの最新情報を更新して次隊に引き継がれます。このルートを通る先導者(ナビゲータ)は、必ずこのルートを順番に通過し、勝手にショートカットをすることは許されません。方位はすべて磁方位を使います。真方位と磁方位の違いを偏角といい、日本では現在、約7°西に傾いています。図6は日本の観測隊が活動している地域の偏角図です。真方位から西に40°~60°もずれています。

図4 赤旗を頼りに進む雪上車

図5 ルート方位表

図6 南極の偏角図(2010年)

 このような環境の中で、日本隊はどのようにして目的地に到達し観測活動を続けてきたのでしょうか?現在はGPSを頼りに容易に位置を同定し、どこにでも行けますが、GPSが無い時代には、磁石と距離計が頼りでした。磁石は、ヨットなどで使うハンドベアリングコンパス(図7)を使っています。これは、アルコールの上に磁針を浮かせた構造で、伏角(磁針の地表面からの傾き)が大きくても、通常使う板状のコンパスのように磁針が周囲の容器に触れたりしないので、南極で使われています。

図7 ハンドベアリングコンパス

 距離の測定は、犬橇の時代には、橇の後ろに車輪を取り付け測定しました(図8)。現在は雪上車の距離計を使っています。実際のナビゲーションは以下のように行います。新たなルートを作るときは、出発点と目的地の緯度・経度から、進むべき磁方位と距離を数式により計算します。それを基にハンドベアリングコンパスで磁方位を測定しながら進んで行きます(図9)。赤旗は通常2km毎に設置します。磁方位と旗間の距離をルート方位表に記載します。数百キロ離れた場所でもこの方法で目的地に到着することができます。また、絶対的な位置を測定するには天測を行う必要があります。図10は、昭和基地周辺の海氷と大陸拠点のS16に至る沿岸斜面のルートです。ルートは海氷上の氷山やクラック、大陸ではクレバスを避けるため、ジグザグに曲がっています。

図8 犬橇の距離計(白の矢印)。タイヤの回転数で測定する。

図9 磁方位と雪上車の距離計で進む

図10 昭和基地周辺のルート図

4.大陸沿岸斜面でのロストポジション

 図11を見てください。昭和基地の北の海岸に「とっつき岬」という小さな露岩があります。ここは昭和基地から車両で大陸に上がるときの登り口で、ここからS16まで、ルート上に設置された赤旗を目印に斜面を登って行きます。

図11 事故が起きた沿岸斜面

 事故は、このルートをS16から下る時に起きました。1979年7月10日、太陽がまだ顔を出さない厳冬期でした。S16での仕事を終えた3人のパーティーは、小型雪上車で11:45に帰路に就きました。約1時間後ルートをはずれます。風速12m/sの地吹雪で視界は悪く、ルート上に約500m毎にある赤旗を見失いました。F34という地点です。ルートはここから左に大きく曲がるのです。見失った時点で、最後に通過した赤旗まで引き返すのが鉄則ですが、3人はそのまま直進しました。おそらく、「いずれ海岸に降りて海氷上を南に行けば昭和基地に到着できるハズ」と考え、図の破線(図11、12)を進んだのです。

図12 放置した雪上車(赤丸の中、1980年1月23日上空から撮影)。白い筋はクレバスの位置に対応し、破線は雪上車の進行方向を示す。

 ところが、この先はフラッツンガという地名のクレバス地帯なのです。14:10、「前進が困難になったので雪上車は引き返す」と、昭和基地に無線連絡がありました。14:30、雪上車の右履帯(キャタピラ)が幅1mのクレバスを踏み抜き40度も傾斜し動けなくなりました。しかたなく、食糧・寝袋・ザイルを持って雪上車のシュプールを辿り徒歩で引き返しました(16:00)。運よく風は弱まり、昭和基地で観測した気温は、-25~27℃、夜は満月でした。

 昭和基地では16:00の帰投予定時刻を過ぎても帰らなのでレスキー態勢に入りました。16:50、先発隊が出発、「とっつき」ルートのF35地点で遭難した雪上車のシュプールを発見、これを辿ると、21:30、F34地点から7.4km下ったところ(会合点)で3名を発見することができました。放置した雪上車は、その後、氷と共に押し流され現在は海中に沈んで見えません。この事故は太陽が出ない厳冬期に起きましたが、天候が良く、しかも満月で視界も良かったため大事には至りませんでした(文献1)。

5.内陸氷床でのロストポジション

 1989年7月27日から1990年3月3日にかけて、6人からなる南極横断隊が犬橇を使って南極半島の先端からソ連のミールヌイ基地まで約6,300kmの探検旅行に成功しました(図13)。終着点まであと26kmのところで日本から参加した舟津圭三さんが吹雪の中、テントから外出し行方不明になりました。結果的には、一晩ビバークして助かりましたが、危機一髪のできごとでした。

図13 南極大陸横断隊の経路(文献2)

 1990 年3月1日、18:00頃、舟津さんが居ないことに仲間の一人が気づき、全員に連絡しました。直ちに捜索活動が始まりました。撮影のためミールヌイ基地からキャンプ地に来ていた大型の雪上車は隊員のキャンプ地から150m離れた所に停まっていました。ロープをその雪上車に固定し、5mおきに一人づつロープに捕まって同心円状に捜索しました。この方法は、視界不良のときに行う一般的な捜索方法です。夜中の11時まで続けましたが手掛かりは得られませんでした。気温は-10~-15℃、33~35m/sのブリザードでした。翌3月2日、朝の5時、舟津さんが大声をあげて捜索中の仲間に走り寄り、13時間ぶりに救出されました。

 舟津さんによることの顛末は以下のようなものでした。

ミールヌイ基地への伝言を託すため、地吹雪の中、雪上車に向かいました。防寒ブーツは履かず、ウールの靴下1枚の上に薄いゴアテックス地の防水靴下1枚を履き、ゴーグルも着けないで、ポリプロピレンの下着1枚と薄いフリースのシャツの上にゴアテックスのウインドジャッケ1枚という軽装でテントを出ました。テントと雪上車の間には15m間隔でスキーが雪面に突き刺して目印としていたので、雪上車には難なくたどり着きました。しかし、テントに戻る途中、突風に見舞われ、よろめいたとたんに雪で目がやられ、2本目のスキーが見えなくなってしまいました。「動いてはいけない」という心の中からの声を無視し前進しました。「目印のスキーは絶対にあるはず」と意地になってしまったのです。目印を失ってから15分が経ち、ようやく自分の過ちに気づきました。「ここは動いてはならない。」心の奥底からの声でした。ウインドパンツの中を探ると、犬のチェーンやクリップが凍結した時に使う20cmほどのプラーヤーが見つかりました。これで硬い雪面を無心で堀り進み、深さ70cmのところで横穴に足を入れて横になることができました。体全体がすぐ雪に埋まり、口から首にかけて小さな空間を作り呼吸しました。捜索隊が雪上車から打ち上げた合計4発の信号弾が光るのは確認できましたが、光っているの5秒間だけで距離感がつかめないため、動かないことにしました。午前5時頃、捜索を再開した仲間の「ケイゾー」という声が聞こえました。声の方に進むとオレンジ色のジャケットが見えました。15mほど走って仲間に遭遇することができました。発見されたのは雪上車の風上でした。通常吹雪の日には、目印に立てるスキーにロープを設置しますが、探検旅行も終わりに近づき、「もう張らなくてもいいだろう」という慢心が生んだ遭難だったと舟津さんらは語っています。(文献2,3)

6.昭和基地での遭難

 1956年から始まった日本の南極観測は、途中3年間の中断はあったものの60年以上も継続したことになります。これまで観測隊に参加した隊員のうち、現地で亡くなったのは第4次隊の福島隊員だけです。原因はブリザード時に外出したロストポジションでした。1960年10月10日のことです。

 10月7日夕刻、ベルギーのロアボードワン基地からオッター、セスナの小型航空機2機が飛来し、6名のベルギー隊員が昭和基地を訪問しました。彼らは翌8日に帰投予定でしたが、7日夜半に始まったブリザードのため、昭和基地滞在を余儀なくされました。10月10日、このブリザードがさらに激しくなり、朝9時には風速28.1m/s、視程10mになりました。ベルギー隊員は、基地の建物から東に200m離れた海氷上に3つのテントを張り宿泊していました。9日夜に基地からテントに帰ったのは5人で、1人だけは発電棟で寝たようです。

 10月10日朝、5名のうち3名は朝食時に主屋棟に来ましたが、残る2名は昼過ぎまでテントに残留し、13時頃主屋棟に向かってテントを離れました。ところが、2人は途中はぐれてしまい、1人だけは14:30頃ようやく主屋棟に辿り着きました。しかし、残る1人は行方不明になりました。ベルギー隊から要請を受けた越冬隊長は、直ちに3班からなる捜索隊を編成し、14:50頃から捜索を開始しました。

 いっぽう、福島隊員ともう一人の隊員は、海氷上に置いてあった調査旅行用カブース橇の入り口の固縛をやり直すため、13:30頃基地の建物を離れました。犬に餌をやり終えた後、いったん主屋棟まで戻り、カブース橇に向かいました。戸外に出た時は10mほどの視界でしたが、その後3mまで急速に悪化し、ロープ末端にある車庫からわずか50m先にある橇に到達することはできませんでした。2人は基地に戻りかけましたが、途中、方向を見失い、最初に到達した露岩がどこか分からず、この付近で2人ははぐれてしまいました。15時少し前、一人の隊員だけが基地に辿り着きましたが、福島隊員は行方不明となりました。15:00には風速27m/s、視程3m、17:00には最大風速32.5m、最大瞬間風速は40m/s、視程1mに達しました。ベルギー人の捜索隊・合計3班の他に、第4,5班を新たに編成し、福島隊員の捜索を重点的に行うことになりました。しばらくして、ベルギー人捜索の第1,2班は基地に戻り、福島隊員の捜索に加わりました。ベルギー人捜索の第3班と福島隊員捜索の第5班の計4名は、11日15時頃まで、基地に戻ることができませんでした。この時点で行方不明者は6人になっていたのです。捜索はロープを建物の一端に固定し、扇型を描くようにして行い、これをしだいに延ばしていく方法をとりました。また、基地のあらゆるロープ類を持ち出し、基地周辺の小屋、アンテナからヘリポートに至るまで遭難者が触れることができるように張り巡らしました。また、サイレンも断続的に鳴らし、照明を点灯しました。ガソリン雪上車を始動し捜索を援護しました。10日22:30頃、不明だったベルギー隊員がテントに戻っていることが確認されました。

 固定ロープによる捜索は、11日早朝にかけても続きました。午後には視界が回復し、前夜基地に戻れずビバークを余儀なくされていた4名の隊員は、15:00過ぎに基地に戻ることができました。捜索は12日の日没まで休みなしに続けられ、西オングル島に至るまで行われましが、手掛かりは得られませんでした。ベルギー隊のセスナ機を使った低空飛行も行いましたが発見に至らず、10月17日14時に死亡と認定しました。

 福島隊員の遺体が発見されたのは、1968年2月9日、第9次隊の夏季でした。地質調査中、岩陰に横たわっていた福島隊員を確認しました。遭難場所から約4km離れた西オングル島の西端でした(図14)。行方不明から7年4か月が経っていました。このシーズンの12月9日にはプラス8.1℃の気温を記録し融雪が例年になく進んだため、遺体発見につながったのでした。遺体が発見された場所は、遭難した場所から一直線の風下に位置しています。歩き回るうちに、力尽き風下に流されたことが想像されます。遺体は発見地点で荼毘に付されました(文献4、5)

図14 福島隊員の遭難場所と遺体発見の位置

文 献

(1)国立極地研究所(1980):『日本南極地域観測隊第20次隊報告』 
(2)ジャン=ルイ・エティエンヌ、高橋啓訳(1991年):『南極大陸横断-国際チーム219日間の記録-』 早川書房
(3)舟津圭三(2019):『犬ぞり隊、南極大陸横断す』三十周年記念復刻版 セルバ出版
(4)文部省(1963):『南極6年史』 pp.87-89
(5)財団法人 日本極地研究振興会(1981):『南極外史』丸善 PP.260-271

石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール

前国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。

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