私は、本年6月16日に立川グランドホテル会議室で開催されました、公益財団法人日本極地研究振興会の第10回評議員会に辞表を提出し、同財団の理事、従いまして理事長の職を辞任いたすこととなりました。理事の任期2年毎の任期満了に際しての退任ではなく、勝手ながら辞任をお許し下さい。これまでの長年に亘る私へのご指導ご鞭撻に厚く御礼申し上げるとともに、引き続き財団へのご支援を賜れば幸いでございます。
この機会に、日本極地研究振興会の沿革の一端に触れさせて頂きたいと存じますが、多くはその英名Japan Polar Research Associationの略称JPRA を用いさせて頂くこととしました。財団法人日本極地研究振興会設立の文部省による認可が、理事11名、監事2名として、1964年11月21日になされ、同年12月9日第1回理事会が開かれ、理事長に国際協同南極観測参加に力を尽くされた茅 誠司氏、常務理事に宮地政司氏と鳥居鉄也氏の各先生が選出され、評議員30名の委嘱が行われました。
この財団法人の設立には、二つの契機があったと考えられます。一つは1961年第5回SCAR(南極研究特別委員会/この時から南極研究科学委員会となったと思います)がウエリントンで開催された際、ロス海沿岸のいわゆるドライバレー地域のエキスカーションが行われ、これに参加された鳥居先生は、是非この地域の地球化学的調査を行いたいと考え、当時我が国の南極観測が中断していたので、その間にその調査を1963年12月に開始したこと、他方、中断されている我が国の南極観測の再開をどう進めるかについて、JPRAに我が国の南極観測の設営を担当する機能をもたせることも考えられたようです。
鳥居鉄也先生は、第4次南極観測越冬隊長を務めておられた1960年10月、そのもとで越冬隊員を務めていた私が、畏友福島 紳隊員とともにブリザードの中で彼とはぐれ、福島隊員は行方不明となってしまった南極観測隊唯一の遭難事故を脳裏に、官を辞して千葉大学から私立の千葉工業大学に移られ、JPRAをよりどころに、ドライバレー国際掘削計画ほか多くの方々を誘い、1986/87年シーズンまでドライバレーに通われました。
私は、J. F. ケネディが1963年11月22日暗殺され、半旗の掲げられた米マクマード基地にもお供して、あいつらは何しにきたのだという言葉を耳にしたこともあり、その後、JPRAのお手伝いも少しはしてまいりましたが、本格的活動は2004年の立正大学退職後となり、2008年10月、鳥居鉄也理事長のご逝去の後、他にない財団であるからと勧められ、非才を顧みず本年まで理事長を務めてまいりました。
新たな時代を迎え、新たな人材により、新たな運営が開始されつつあります。皆様のご支援を切にお願い申しあげます。
2020年7月15日
公益財団法人日本極地研究振興会
前理事長 吉田 榮夫