第1次南極観測隊で見た幻のほうおう座流星群に58年ぶりに再開

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  • 東京大学名誉教授 中村 純二
私、中村は、我が国南極観測隊の夜光・極光観測隊員に選ばれ、第1次、第2次、第3次隊に参加した者です。 観測船「宗谷」で昭和基地まで3度往復したわけですが、「宗谷」船上では夜光観測を行い、第3次に昭和基地で1年間越冬した時には、極光、すなわち「オーロラ」の観測を行いました。 月のない夜でも、空が晴れていれば星あかりにより、ある程度野道でも歩くことが出来ます。しかし全天の恒星の光を集めても、星あかりの三分の-しかなく、残りの三分の二は、夜光、すなわち夜間大気光によるものなのです。 オーロラも夜光も、光源は、地上100~120kmの電離層E層や、150~250kmのF層内の酸素原子であって、E層から出る黄緑色の光はオーロラ現象の固有なスペクトルなのでオーロラ緑線と呼ばれ、F層の赤い光は星霧でも見えることがあるので、星霧赤線と名付けられています。 さて流星雨の話ですが、これは第1次観測の際、宗谷がシンガポールを出港してケープタウンに向かう途中、赤道を越えた三日後の1956年12月5日の夜、発生しました。場所は南緯10度、東経73度付近でした。 空はよく晴れていたので、私は上部船橋で夜光観測を行っていましたが、19時ころから流星が幾つか流れ始めました。ちょうど渡辺兵力隊員が船橋に上がって来たので、「流れ星が流れた時は誰かが死んだのだという言い伝えがあるが、そうだとすれば今日は恐ろしい日だ」、などと話し合いながら眺めていました。科学者なら当然その数を数えるべきであるのに、その時は、ただその眺めを楽しむばかりでした。 21時40分、突如として船橋付近は照明弾でも受けたように明るく輝きました。見上げるとスバルとペガサスのちょうど2等分線に沿って、長さが緯度にして20度くらいの青白い閃光が閃いていました。正に爆発的な大火球でした。 この特大流星はやがて白から橙へと次第に色を変えると共に、幅も3度くらいに拡がり、上空で吹き荒れる秒速100mにも達する風によって、左右にくねくね曲がって星空の中を漂いはじめました。3分あまり経過すると褐色の星雲状となり、静かに消えて行きました。周囲は流星の嵐で、様々な色や長さの流星が飛び交い壮観でした。 この時になり、これは出現数を数えるべきであったと気づき数え始めた矢先、再び青白い大火球が東方オリオンの方向に出現、印度洋の波間に浮かぶ泡沫まで照らし出し、驚天動地の一瞬でありました。この頃には船内放送により、隊員や乗組員の大半は後甲板に集まっていましたが、一同の発する歓声がどよめきとなって伝わってきました。今回の火球も5分間くらい、色や幅を変えながら曲がりくねり、銀河のような姿になって星空の中に霞んでいきました。 こんな素晴らしい流星群は、素人であってもー応の記録を残さないわけには参りません。まず個々の流星の跡を延長して一点に交わる輻射点の測定ですが、私自身、南半球の星座を見るのは初めてですので、手元には小さな星座盤しかありません。輻射点付近の一等星フォーマルハウトはよく分かるのですが、近くの彫刻室座は星が小さくて形も定かでありません。その左の鳳凰座は、α星β星はじめ全体の形もよく指摘できました。本当は彫刻室座かもしれませんが、鳳凰座のほうが確実と考え、『ほうおう座流星群』と名付けることにした次第です。 偶々、地磁気担当の小口高隊員が上がって来たので、10分毎の流星の計数を手伝ってもらうこととし、私は左舷側、彼は右舷側の計数を行いました。宗谷船員の下松航海士や関谷操舵員も星空が好きで、計数を実行しておられました。私の10分間当たりの録数結果は、11,12,8,6,4,10でしたが、後に下松氏等の結果とも合わせて、1時間当たりの流星数は、20時に100個、21時に200個、22時に100個ということで落ちつきました。しかし21時30分頃には300個に達していただろうと私自身は思っています。この流星群の名称については、次のような後日談もありました。 宗谷船内で発行している南極新聞に、翌6日付で私と関谷さんは熱帯の夜の流星雨の記事を投稿したのですが、永田武観測隊長は8日付の新聞に「5日夜の流星雨は確かに見事だった。12月初旬にはエンケ彗星が出現するので、今回遭遇した流星群はエンケ彗星の星塵によるものと思われる」との投稿をされました。私と小口隊員は、これは修正の必要があると考え、連名で9日付の新聞に「去る5日の流星群の輻射点は鳳凰座の周辺にあった。従って牡牛座を輻射点にもつエンケでないことは明らかで、恐らく未確認の流星雨だろう」と発表しておきました。これが後日、『幻のほうおう座流星群』と言われ、流星学会で問題になろうとは夢にも思いませんでした。 第一次の予備観測から帰国して、私は東京天文台測光部の古畑正秋助教授を訪ね、夜光観測の報告かたがた流星雨の話をしたところ、先生は大変興味を示され、さっそく南半球の主な天文台に電話をかけ、未確認流星群についての問合せをされました。その結果、流星雨を見た人は何人かいましたが、輻射点や出現個数を数えた人間は一人もいないことが判明しました。 二人は関連する過去の彗星を、詳しく調べる必要に迫られた次第です。 先生はまず「ほうおう座流星群」の軌道要素を計算され、 Q=73°    q=0.9995    i=12°  ………   (1) と求められました。これに近い彗星には、1819年に出現したブランペイン彗星があり、その後行方不明となっているが、軌道要素は Q=77.4°   q=0.892    i=9.4° ………   (2) であって、(1)と(2)は一致しないが、よく似ていることが判明しました。 古畑先生と私は連名で、1957年8月発行の天文月報第99号に「1956年12月5日、印度洋で観測された流星雨」という一文を発表し、最後に「これは少し疑わしいが『ほうおう座流星群』はブランペイン彗星と関係しているかも知れない。」と、付言しておきました。 この論文のため、1958年以来、理科年表には『ほうおう座流星群』が、流星群の一員として掲載されることになりました。 ほうおう座流星群も、ブランペイン彗星も、軌道から計算すると5.1年毎に地球に近づくはずだというので、国立天文台の渡部潤一氏や佐藤幹哉氏、春日敏測氏等は、1980年頃から、12月5日前後には熱心に夢の流星群を追いかけ始め、渡部氏に至っては、南半球においても12月4日や5日の夜は熱心にほうおう座を中心に流星を探し求めましたが、全くの徒労となりました。 こんな事実もあったので、理科年表でも1993年から幻の流星群は削除されるに至りました。 ところが、2003年になって、米国アリゾナで「2003WY25」という小惑星が発見され1)、米国人他が、「これはブランペイン彗星ではないか」と言い出したため、我国の流星研究者にも大問題となってきました。なぜなら当時ジャコビニ流星群が1972年に観測できなかった理由として、ダスト・トレイル理論が提出され、見えなかったわけを見事に説明していたからです。渡部氏等3名は2003WY25惑星がばらまいたと思われるダストの軌道を丹念に計算された結果、この小惑星とブランペイン彗星、並びに彗星によるダストの塊と『ほうおう座流星群』の軌道は全く-致し、特に1956年12月5日の出現時刻は、世界時の14時から17時頃である点まで一致しました2)。 このように、幻の流星群に遭遇して記録したのも日本人、流星起源の謎を解いたのも日本人という、感動的な状況となりました。 ただし1956年の輻射点は、計算値は赤経4度、赤緯-42度の「彫刻室座」となり、私が推定した輻射点とは13度も異なります。これに関しては、前述の通り、私が小さな星座盤しか持っていなかったために、10度程度の誤差はあっても然るべきで、不一致も当然ということで収まりました。
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ラ・パルマ島遠征隊がとらえた『ほうおう座流星群』の流星。出現時刻は、2014年12月2日0時47分(世界時)。ニコンD800 露出4秒、ISO3200 (撮影 佐藤幹哉)
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ラ・パルマ島スペイン国立天文台にて(左より、佐藤、渡部、中村)

ダスト・トレイル理論による軌道計算を将来に向かって進めると、2014年12月1日のU.T.23時から2時間余り、再び彫刻室座を輻射点とする流星雨が、アフリカ西海岸を中心に出現することが示されました3)。渡部さんや佐藤さん、NHK取材班と共に、私共も、11月末にカナリヤ諸島、ラ・パルマ島のスペイン国立天文台に陣取り、幻と思われた『ほうおう座流星群』と58年ぶり、二度目の出現に再会と観測ができた次第です。 流星群は彗星の誕生と共に周期的に地球で観測できたが、毎回太陽に近づくと氷質の部分を飛散させるので、最終的には隕石のような小惑星になるだろうというのが天文学では仮説になっていました。 ブランペイン彗星は「鳳凰座流星群」を作ったが、年と共に流星群は小さくなり、今回のラ・パルマ島での再会のように縮小し、更に2003WY25のような小惑星になってしまう過程が実観測で証明された結果、彗星の一生は仮設ではなく科学的事実となりました。本年3月の彗星・流星学会では、この見地から正式名を『ほうおう座流星群』と定め、今後は同彗星の小惑星に至る過程を、学会としても追及すべきことが決議されました。 参考文献 (1).Jewitt ; On theComet 2003WY25, Astron.J 131(4) 2327 (2006) (2).Watanabe, M.Sato, T.Kasuga ; Phoenicids in 1956 Revisited, Publ.Astron. Soc,Japan 57 45 (2005) (3).Sato, J.Watanabe ; Forecast for Phoenicids in 2008, 2014, and 2019 Publ.Astron.Soc.Japan 62(3) 509 (2010)

中村 純二 (なかむら じゅんじ)

プロフィール

1923年生まれ、東京大学名誉教授。東京帝国大学理学部物理学科卒。専攻は宇宙光学。夜光及びオーロラ観測担当で第1次、第2次、第3次南極観測隊に参加。1956年12月、第1次南極観測隊の時、往路の南極観測船「宗谷」船上で「ほうおう座流星群」に遭遇し、2014年12月、58年ぶりにスペイン領カナリア諸島で再会する。
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