シリーズ「南極観測隊エピソード」第3回

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南極観測と朝日新聞その3

元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治

日本の南極観測の「恩人」を一人挙げよ、と言ったら、みなさんは誰を挙げるだろうか。第1次から第3次まで隊長を務めた永田武・東大教授を挙げる人が多いかもしれない。あるいは、第1次越冬隊長の西堀栄三郎氏か、あるいは、永田隊長を支えて日本の科学界をまとめた当時の日本学術会議会長、茅誠司氏か、あるいはまた、南極観測を国家事業にした当時の文部大臣、松村謙三氏か、それぞれ一理はあろう。 しかし、私に問われれば、私は迷わず、それは朝日新聞の矢田喜美雄氏だと答えるだろう。矢田氏がいなければ、敗戦から10年、まだ貧しかった日本が国際地球観測年(IGY・1957~58年)の南極観測に参加し、南極条約の原署名国になることは、絶対にありえなかったと思うからだ。 オリンピック選手から小学校の教師を経て新聞記者に
矢田 喜美雄氏 矢田 喜美雄氏
そのいきさつを記す前に、矢田喜美雄氏とはどんな人物か、その紹介を先にしよう。矢田氏は山梨県の出身で、父親は小学校の校長や県の視学などを勤めた教育者だった。父親の転勤にしたがって小学校を6回変わったそうだが、体も大きく、どこへいっても「ガキ大将」だったらしい。 運動が得意で小学生のときから走り高跳びで頭角を現し、山梨師範時代には全国中等学校陸上競技大会で1メートル80を跳んで優勝している。山梨師範から早稲田大学高等師範部に進み、入学した年に当時の日本記録1メートル98を出し、4年生のときにオリンピックの代表選手に選ばれて、ベルリン・オリンピック(1936年)で堂々5位に入賞しているのだ。 父親のあとを継いでか、大阪で小学校の教師となり、太平洋戦争が始まる直前の短い間ではあったが、軍国主義が学校を覆っているさなかに生徒ひとり一人の個性をのびのびと伸ばす異色の教師だった。体操の時間に近くの公園に生徒を連れ出して、木登りをさせたり、土手をごろごろと転がり下ろしたり。さらには舟を借りだして櫓をこがせたりもしたそうだ。 教師時代の矢田氏には、もう一つ、小説のモデルになったというエピソードがある。矢田氏は早稲田大学陸上競技部の先輩で、同じくオリンピックの選手だった織田幹雄氏と親しく、織田氏が朝日新聞大阪本社の運動部の記者をしていたため、しばしば訪ねて大声で談笑していた。 そのとき運動部の隣の席にいた学芸部の記者が「これは面白い先生だ。小説のモデルになるぞ」と、作家の藤沢桓夫(ふじさわ たけお)氏に引き合わせた。その結果、藤沢氏の小説『新雪』が生まれ、朝日新聞に連載されたのである。 まったく戦時色のない、さわやかな青春小説として読者の人気を集め、映画にもなった。映画では矢田先生役を水島道太郎、相手役を月丘夢路がやり、これも好評で、月丘夢路はこの映画で一躍人気スターになったのである。 それだけではない。矢田氏はこのモデル事件をきっかけに、織田氏の勧めもあって、教師を辞め、朝日新聞の記者になったのだ。 新聞記者になった矢田氏には、南極の前にもう一つ、「赫々たる戦果」があった。1949年の下山事件である。10万人の人員整理を前にした下山・国鉄総裁が東京・五反野の常磐線で轢死体となって発見された事件で、自殺か他殺か、捜査陣まで真っ二つに割れるという怪事件だった。 矢田記者は、死後轢断、すなわち他殺説をとった東大法医学教室に出入り自由の特別待遇を認められるほど深く食い込み、自らも現場周辺のルミノール反応を調べて回り、線路上に数々の血痕あとを発見するなど、大活躍した。 検察庁の幹部たちが集まって矢田記者の取材結果を聴く会が開かれたことまであったほど、矢田記者の取材力、行動力はすごかったのだが、結局、下山事件は自殺ということで幕が引かれ、矢田記者の努力は実らなかった形である。 しかし、下山事件はその後も「ナゾの怪事件」として長く尾を引き、のちに『謀殺、下山事件』という書物を出版するなど、矢田記者は終始、他殺説の有力記者として名が轟いていたのである。 きっかけは連載記事「北極と南極」から さて、その矢田記者と南極との出会いは、というと、1955年3月に朝日新聞が13回にわたって連載した「北極と南極」という記事だった。選挙が終わってニュースが少ない時の、いわゆる「ひまダネ」で、それを担当した矢田記者は、2年後の国際地球観測年(IGY)に各国が協力して南極観測をおこなおうとしていることをキャッチした。 そのとき、矢田記者の頭にひらめいたのは、白瀬探検隊のことだった。白瀬隊は、早稲田大学をつくった大隈重信卿と朝日新聞が後援して実現できたことを知っていた矢田記者は、「白瀬隊の縁もあることだし、朝日新聞の力で日本も参加できないか」と考えたのだ。 朝日新聞が船をチャーターして、科学者たちを乗せて南極まで行こうというのである。矢田記者は、そのことを当時の朝日新聞社の事実上のトップ、信夫韓一郎専務に話したところ、信夫専務が「それは面白い」と乗って来た。信夫専務も時代の風を読み取る優れた新聞人だった。 敗戦から10年、日本はまだ貧しく、海外に目を向ける余裕もない国民の閉塞感を吹き飛ばすには、南極観測は格好の企画ではないか、と信夫専務は直感的に見抜いたのだ。南極観測の恩人を2人挙げろと言われれば、私は矢田記者と信夫専務を挙げたいと思うが、どうだろうか。 信夫専務は、雑誌『科学朝日』編集長の半澤朔一郎氏を呼んで、矢田氏と2人で学者たちの意見を聞くようにと命じた。両記者は、まず日本学術会議の茅誠司会長、IGY特別委員会日本代表の永田武・東大教授を訪ねて、意向を打診したところ、反応はすこぶるよかった。 茅氏は「日本の学会として考えるべきことを朝日新聞から教えられた感じである。ぜひ実現したい」と語り、永田教授も「われわれは『とても行かれぬ』と考えてしまって、あきらめていた。それがかなうとは願ってもない計画である」と語った、という記録が残っている。 話はとんとん拍子に進んで、5月には南極観測は日本学術会議がやる、朝日新聞はそれを後援する、という基本線が決まり、7月には関係学界の学者が朝日新聞社に集まって、信夫専務が「学者の皆さん方の力で、日本の曇り空に大きな青い窓を開けてください」と挨拶し、9月のブリュッセル会議で日本の参加が認められるや、朝日新聞の1面に「本社、南極観測の壮挙に参加、全機能をあげて後援」という大社告を掲げて、ベールを脱いだ。 南極観測に、子どもたちまで熱狂的に歓迎! 信夫専務の予想した通り、国民は南極観測への参加を熱狂的に歓迎した。とくに、関心が子どもたちにまで広がって、朝日新聞が呼びかけた義捐金に、「観測隊にあげてください」と小学生から5円玉、10円玉が次々と寄付される騒ぎにまで発展、それがまた、政界にも跳ね返って、国を挙げての一大事業となった。 報道各社の習性として、一社が力を入れる企画には他社は冷ややかになるケースが多いのだが、南極観測の場合はそうはならなかった。各社とも先を争うように、大々的に報道したのである。 これは、のちに言われたことだが、戦後の日本で国民を元気づけたニュースは3つあったというのだ。水泳の古橋広之進選手が次々と世界記録を更新したことと、湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞したこと、それに南極観測だというのである。 国家事業になったとはいっても、担当の文部省にも南極の専門家は一人もいない。予算請求の原案は、半澤・矢田両記者が徹夜で作成したものだったといわれている。事実、朝日新聞社内に「南極学術探検事務局」が置かれ、半澤氏が事務局長になり、矢田氏と二人が中心となって準備作業が進められた。 南極観測事業には「観測」と「設営」の二つの作業がある。観測部門は、科学者の間に絶大な信頼があった半澤氏が担当し、極地での生活面を支える設営部門は、矢田氏が担当した。2人はその点でも名コンビだったといえよう。 矢田氏が「設営部門」の準備を早大山岳部に依頼 矢田氏は、極地での生活面は山男が詳しいと、早稲田大学の縁で、早大教授で山岳部の部長だった関根吉郎氏を引っ張ってきて、中核に据えた。早稲田の山岳部といえば、当時、実績でも実力でも大変なものだったからだ。 関根氏のもとに山岳部員やOBなどが集まってきて、南極観測の設営部門はどうあるべきかの研究が始まった。そして、その集大成ともいうべき耐寒設営訓練が、年も明けた1956年の1月から2月にかけて北海道の濤沸湖でおこなわれた。 朝日新聞社の主催で、隊長に内定していた永田武氏、副隊長に内定していた西堀栄三郎氏をはじめ、観測隊員の候補たちも参加して、凍った氷上で建物を建てたり、雪上車を動かしたり、さらには小型機の離発着を試したり、雪中行軍をしたり、と大がかりなものだった。 この設営訓練を取り仕切ったのは、矢田氏と早大山岳部の人たちだった。本番そのものといっていい設営訓練を取り仕切ったのだから、矢田氏も早大山岳部の人たちも、当然、南極観測隊員となって南極に行かれると思っていたに違いない。それが、なんと、そうならなかったのである。 早大山岳部だけでなく、南極観測への参加を提言し、実現した『恩人』ともいうべき矢田氏まで行けなくなるとは、一体、何があったのか。――それは次号に。(以上)

柴田鉄治(しばた てつじ)のプロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。
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