シリーズ「南極観測隊〜未知への挑戦」 第3回

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南極海に中深層巨大生態系はあるか?

国立極地研究所名誉教授 内藤 靖彦

科学・技術が高度に発達した21世紀は宇宙の時代と言われています。お蔭で、我々は月の裏側から宇宙の果てまでも、さらには宇宙から地球の隅々までも見渡すことができます。まさに我々は宇宙の時代に生きているといえるでしょう。面白いことに、多くの宇宙飛行士は宇宙から見た地球は「青い」と感動しています。遠くから見ると「地球は青い」ということに人類が初めて気が付いた瞬間なのかもしれません。しかし、地球が青く見えるのは「広大な海があるため」と理屈の上では彼らは理解していたはずでしょう。多分、自分の肉眼で見て初めてその青さに感動し、「地球は水と生命の奇跡の惑星」だと改めて認識して述べたのでしょう。これは、人は視覚的情報が如何に重要かという一つの例かもしれません。 宇宙飛行士が「青い地球」と感動した海洋は宇宙とは異なり視覚化が困難で、視覚的認識がなかなか及ばない世界です。地球面積の2/3を占める海洋は、宇宙飛行士も見ることのない平均水深3800mに達する巨大水隗です。そこには膨大な量の生物が存在します。しかし、海洋の生命体が「どういう形」で、「どこに」、「どの位の量」存在しているのかは、我々が眼にしやすい表層を除いて詳細は分かっていません。生命は「食いつ、食われつつ」の関係の上に存在していますが、その関係の詳細も不明です。従って我々は海洋生物の相互依存の関係(生態系)の全体を知っているわけでもありません。我々は海洋生物を資源として利用していますが、その利用も全体の関係を知った上で利用しているわけではありません。また地球環境の変化がどのようなインパクトをこの系に与えているかについても詳細は不明です。 海洋では植物プランクトンは光合成をおこなうため、光の届く「有光層」と呼ばれる水深150‐200mの表層部にしか存在しません。表層で生産されると言っても、植物プランクトンが年間に生産される量は炭素に換算して500億トンとも言われ、その量は膨大で陸上での植物生産量に匹敵します。この膨大な量の植物プランクトンが他の動物の餌となり海洋の生態系を支えています。植物プランクトンは動物プランクトンに捕食され、動物プランクトンはさらに遊泳力のある魚類などの動物に捕食されます。不思議なことに多くの捕食者は、植物プランクトンの生産されない「中深層」と呼ばれる水深200‐1000mの深い層に生息しています。そして中深層の動物の多くが夜浅く、昼深く鉛直移動することが知られています。これは夜間浮上し餌食べて、昼は深層に身を隠すためと説明されていますが、本当のことは明らかでありません。実際中深層に出現する生物種やその量は良く分かっていないのが実情です。眼にすることのできない冷たく、暗黒の中深層は興味の対象でなく、むしろ恐怖の対象で、客観的に認識することも困難な世界であったのかもしれません。 我々が如何に中深層のことを知らないかは、西洋の人々に海のモンスターとして恐れた伝説の動物「クラーケン」のモデルとされるダイオウイカの生きた姿が窪寺恒巳博士(国立科学博物館、28次夏隊員)により撮影されたのは2004年であり(図1)、人が月面に立ってから四半世紀後だという例からも分かります(このニュースは世界のメディアで大々的に取り上げられたが、極地研の開発した深海カメラが使用されことは余り知られていません)。  
深海の生きたダイオウイカの姿 図1 小笠原沖で窪寺博士により初めて撮影された深海の生きたダイオウイカの姿
中深層のことが分かっていない最大の理由は調査が困難なことにあります。一般に海洋動物の調査はネットによる採集によっていますが、ネット採集は深くなるほど、また対象動物の遊泳力が増すほど効率が悪くなります。これに代わる方法として音響探査法がありますが、これは浮き袋を持つ魚類には有効ですが、これを持たない動物では反射エコーが得られず余り有効ではありません。中深層が謎の世界と言われるのは我々が有効な調査方法を持たないためでしょう。それでも中深層の解明のため最近は調査方法にいろいろ工夫がなされています。最新の音響探査から中深層にはハダカイワシ類が大量にいることが報告されています。その推定量は従来言われている推定量より桁違いに多く、全海洋で数10億トンに達するとされています。世界の海洋漁業漁獲量は約8000万トンであることからもこの量は膨大です。中深層に膨大な量のハダカイワシが生息することは、中深層にハダカイワシ類を中心鍵種とする巨大生態系が存在することを示しています。 しかし、ハダカイワシ類が中心鍵種の役割を果たしているかどうかはまだはっきり分かっていません。大量にいるハダカイワシがどの動物にどうお利用されているかが分かっていないからです。それでも国立極地研究所とカリフォルニア大学の最近の共同調査からキタゾウアザラシが東部北太平洋の中深層で大量にこのハダカイワシ類を食べていることが定量的に分かってきました(図2、図3)。このことから他の多くの大型の遊泳力のある魚類などもハダカイワシ類を利用していると考えられ、ハダカイワシ類は中深層生態系の鍵種の役割を担っていると予測されるようになりました。  
キタゾウアザラシの採餌深度と採餌回数の関係の日周変動 図2 東部北太平洋海域におけるキタゾウアザラシの採餌深度と採餌回数の関係の日周変動(赤:昼、黒:夜間)(Functional Ecology 2013, Naito et al. より)
ハダカイワシ 図3 キタゾウアザラシの頭に装着したカメラが撮影した中深層のハダカイワシ(Functional Ecology 2013, Naito et al. より)
他方、ゾウアザラシ同様中深層深く潜水するマッコウクジラなどのハクジラ類が大型のイカ類を大量に捕食していることが胃内容物調査から分かっています。ここでよく分からないのは中深層生態系においてイカ類の果たす役割です。同じ中深層に潜水するゾウアザラシとハクジラ類の餌が違うのは何故か、イカは何を捕食しているかの問題です。多分ハクジラ類(図4)はエコロケーションにより遠隔的に探知し、採餌効率の良い大型のイカ類を食べ、エコロケーション機能を持たないゾウアザラシは小さいハダカイワシ類を大量に食べていると考えられます。大型のイカ類は運動機能が発達し遊泳力あると思われていることから多分ハダカイワシ類を捕食していると考えられます。このようなことから敢えて推察を重ねると、中深層にはハダカイワシ類、イカ類、ハクジラ類という大きなエネルギーの流れが考えられます。  
ミナミトックリクジラ 図4 ハクジラ類のアカボウクジラ科のミナミトックリクジラも水深800-1000mに潜水して中深層で餌をとることが明らかになってきました。餌生物はほとんどがイカと考えられています。
中深層生態系はどこにあるかは、ハクジラ類やゾウアザラシの生息海域から推定することが可能でしょう。図5に示すように、南極海は中深層生態系が存在する可能性の高い海域です。南極海はナンキョクオキアミを中心にする生態系が知られていますが、この生態系はナンキョクオキアミを捕食するペンギン、カニクイアザラシ、ナンキョクオットセイ、ヒゲクジラ類がいずれも浅い潜水をすることから中深層より浅いところで形成されるとされています。しかし、ほとんど注目されていないのが南極海のハクジラ類です。南極海ではクジラの調査が組織的に行われている海域です。調査の主眼はヒゲクジラ類ですが、1976‐1988年に行われた調査からミナミトックリクジラなどのアカボウクジラ類の生物量が2,800,000トン、マッコウクジラが770,000トンと推定されています。この生物量はナンキョクオキアミを捕食するカニクイアザラシやナンキョクオットセイの生物量に匹敵すると考えられます。  
naitou_6 図5 南極海生態系の概念図
これらのハクジラ類が中深層で捕食するイカの量は膨大で、南極海に巨大な中深層生態系が形成されているとする根拠です。近年は南極海のハクジラ類の存在は忘れ去られ、南極海の中深層生態系にも関心が払われていません。最近の地球規模の環境変動はともすると目に付き易いところに注意が払われますが、環境変動の時代にあって我々は、眼にすることない世界にももっと注意する必要があります。温暖化の影響が中深層にも及んでいることが報告されています。今後JAREが先導して先駆的に行う研究課題と思われます。  

内藤 靖彦(ないとう やすひこ)

プロフィール

国立極地研究所名誉教授。南極観測隊に4回参加(越冬隊3回、夏隊1回)、外国隊2回参加(英:バード島基地、豪:マッコウリー基地)。水中で行動する海洋動物の生態を可視化するため小型記録計を開発し、これを用いて多くの海洋動物(イルカ、アザラシ、ペンギン、魚など)の生態を明らかにしてきた。
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