南極での日本初のオーロラ観測

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東京大学名誉教授 中村純二

1958年のIGY(国際地球観測年)に協力すべく、1955年11月の閣議決定によって設置された南極地域観測統合推進本部は、1956年秋に予備観測隊(第1次観測隊)、翌1957年に本観測隊(第2次観測隊)を南極プリンス・ハラルド海岸に派遣することを決定した。永田武隊長率いる第1次観測隊は1957年1月に東オングル島に昭和基地を建設し、西堀栄三郎越冬隊長以下11名の越冬隊を成立させることができた。翌年、第2次観測隊は氷状が大変悪く、米国のバートン・アイランド号の援助を得て氷海に入り、越冬隊員を南極観測船「宗谷」に収容するのが精一杯で、15頭のカラフト犬は鎖につないだまま帰国する他なかった。 IGYに遅れること一年だった第3次観測隊が昭和基地に着いたところ、カラフト犬のタロとジロは無人の昭和基地で、アザラシの糞を主食にして立派に生き抜いていた。村山雅美越冬隊長以下14名の隊員が越冬生活に入ったが、新しく連れてきた小犬3頭と共にタロとジロも隊員同様一緒に過ごし、20日間の犬橇旅行等も行ったので、私が参加した第3次隊は「14人と5匹の越冬隊」と渾名されることになった。 日本初のオーロラ観測 IGYの主要項目であるオーロラ観測は、超高層物理観測グループである5名の越冬隊員が担当した。オーロラ光学観測の中村純二(筆者)、地磁気の小口高、電離層の若井登、宇宙線の北村泰一、オーロラ電波の芳野赳夫の5名は同じ観測棟に入居した。 オーロラは夜間にしか出現しないことが、オーロラ電波の観測等で確かめられていたので、昭和基地で暗夜の続く3月中旬から9月下旬までは、一同夕方起きて、深夜食は仲間で作り、朝寝るという昼夜逆転の生活を、曇りやブリザードの日も実行し、観測に穴が空くことのないように努めた。 オーロラの原因 オーロラの発光原因は太陽の活動にある。太陽最外縁部のコロナから太陽風と呼ばれる電子とプロトンから成る高速のプラズマ流が放出され、それが図1に示すように地球磁場を閉じ込め、太陽と反対側に長い尾をもつ磁気圏を作り出す。磁気圏尾部の中心部は高温のプラズマからなるプラズマシートが形成される。このプラズマシートのプラズマを構成する電子が磁力線に沿ってさらに加速され、極域に流入し、超高層大気と衝突して夜側のオーロラを作り出す。昼側のオーロラはカスプ領域(UとU’の領域)から降下したプラズマによって作られる。 地球の超高層大気は、一部が電離しており、電離層と呼ばれ、3層構造をもつ。下から、地上90~95kmにあるD層、地上100~120kmにあるE層、地上150~350kmにあるF層がそれである。オーロラはこれら電離層 D、E、F層内の大気分子・原子が磁気圏から降下する高エネルギーの電子と衝突し、エネルギーを得て、光子を放出する現象である。

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図1 太陽風と地球磁気圏の説明図

オーロラの色による分類 地上から眺めるオーロラは形や色が様々であるが、1963年に出版された国際オーロラアトラスでは、オーロラの色をa〜fまでの6種類に分類した。タイプaは下部が緑白色で、上へ向かって暗赤色になるオーロラで、タイプbは緑白色のオーロラの下辺部が赤くなる明るいオーロラ、タイプcは一般的によく見られる緑白のオーロラ、タイプdは全体が暗赤色になるオーロラ、タイプeはタイプbと同じであるがより活動的な激しく動くオーロラ、タイプfは青や紫がかったオーロラで太陽光や明るい月光に照らされたときに見られる。 図2は昭和基地で最もよく見られるタイプcオーロラの写真で、図3は地磁気の擾乱時に出現するタイプbオーロラの写真である。また図4は大規模な磁気嵐の時に出現するタイプdオーロラの写真である。 タイプdの赤いオーロラは周期的に明るくなったり暗くなったりする上、場所的にも赤い部分が大きく移動するので、オーロラの中では最も見事な姿と云えよう。また時折、タイプa〜cも同時に出現するので、正に光の交響楽とも云える素晴らしいオーロラである。 タイプa〜cのオーロラの緑色は酸素原子の5577Å輝線の発光で、タイプaのオーロラ上部の暗赤色は電離層F層高度の酸素原子の6300Å輝線の発光である。Åはオングストロームと読み、光の波長単位で、1Åは 1億分の1cm に相当する。タイプdの暗赤色も電離層F層高度の酸素原子の6300Å輝線の発光である。一方、タイプdの下端の赤色は電離層D層の窒素分子の発光である。

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図2 カーテン状黄緑色のタイプcオーロラ。

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図3 カーテンの下縁が鮮紅色のタイプbオーロラ。写真露出は0.3秒程度なのでカーテンの黄緑色と混合して見えている。

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図4 タイプdの真赤なオーロラ。中央は昭和基地の通信用アンテナ柱(1959年8月10日23時撮影)

 
大磁気嵐とオーロラ タイプdが出現する時、地球全体の大磁気嵐が起こっていて、実は中緯度地帯でもタイプdと同じ酸素原子6300Å輝線が発光する赤いオーロラが出現する。わが国では藤原時代に京都で藤原定家が北山の上にオーロラ活動を発見し『明月記』に「赤気」を見たと記している。その同じ日にローマでも北の空にオーロラが出現したが、ローマ人の日記には北方の林に大きな山火事が発生したようだと記されている。最近では、2015年冬にも小型ながら太陽活動はピークを示し、1月末に北海道の陸別観測所から北方に赤いオーロラが見たと報告があった。私達は2月末にツアーでノルウェーのオーロラ帯にあるトロムセー市に出かけ、3晩にわたって赤いオーロラを鑑賞することができた。 オーロラの酸素原子や窒素分子の発光は磁力線に沿って磁気圏から降下する電子との衝突によって起こるが、磁気圏プラズマシートのプラズマは電子と陽子(プロトン)からなるので、オーロラの光の中には強度は弱いがプロトンによる発光もある。高速プロトンは大気分子との衝突によって励起水素原子となり、発光する。発光波長は高速プロトンが地球に向かって移動しながら発光するので、ドップラー効果によって波長が短くなる。そこで水素輝線の最大短縮長から入射プロトンの速さを計算することができる。私が撮影したマイネル型分光写真機からは時速370kmの値が出た。プラズマシートのプロトンを太陽風起源と考え、この速度が太陽風速度と同じと仮定すると、太陽風が太陽面を出てから地球に到達するまで約2日間を要することになる。実際に私共が越冬中の1959年、太陽の赤道面で大きなフレアーが起こってから2日後の8月7日から15日まで、地球全体で短波通信が全くできない大磁気嵐が起こり、昭和基地では1週間の間、日が暮れてから夜明けまで11時間、全天真赤なd型オーロラが輝き続けて壮観であった。 オーロラの高度 越冬中にはまたオーロラの発光高度を求めるために、昭和基地とそこから離れた地点でオーロラの同時観測を行なった。私と川口、平山隊員の3名は、昭和基地から60km のシェッケ岬まで、人曳き橇で一週間の旅行に行った。オーロラが出現したとき、昭和基地の北村隊員と無線連絡を行いながら写真の同時撮影を行った。これらの対写真を用いて球面三角法でオーロラ高度を計算したところ、タイプcのカーテン状オーロラはE層で、タイプbオーロラの下縁はD層で光っていて、南極のオーロラも北極のオーロラも高度は全く一致することが確かめられた。 同時にオーロラは全く音を出していないことも確かめられた。昭和基地ではオーロラが出現している間中タロやジロは吠え続けていた。北極圏のラップ人の間ではオーロラは音を出すとの云い伝えもあったが、これはトナカイ他野獣の咆哮の聞き誤りであったようである。 太陽黒点の11年周期変動 図5は太陽黒点数の年変化を示したもので、大体11年周期をもっていることがうかがわれるが、特に1959年の山の高さや幅は、100年に一度とも考えられるような大きなもので、日本隊は外国に比べ、ポストIGYというIGYの一年後に観測を行ったため、正にオーロラの特等席でオーロラ観測を実施するという幸運に恵まれたのである。 私は帰国後、総てのオーロラの写真やスペクトル写真の現像等を行った後、光電受光器の記録紙と共に読み取りを行ったので、論文発表は1962年になってしまったが、我国の光学的オーロラの論文としては第一号のものとなった。当時は学位は論文によって与えられることになっていたので、私は同時に理学の学位までいただくことになった次第である。

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図5 1850年から2014年までの太陽ウォルフ黒点数の年変化の推移

中村 純二 (なかむら じゅんじ)

プロフィール

1923年生まれ、東京大学名誉教授。東京帝国大学理学部物理学科卒。専攻は宇宙光学。夜光及びオーロラ観測担当で第1次、第2次、第3次南極観測隊に参加。1956年12月、第1次南極観測隊の時、往路の南極観測船「宗谷」船上で「ほうおう座流星群」に遭遇し、2014年12月、58年ぶりにスペイン領カナリア諸島で再会する。
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