インドネシアのスラウェシ島での皆既日食

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元高度情報科学技術研究機構常務理事 狐崎晶雄

2016年3月9日に起こった皆既日食を見てきた。皆既日食は全世界でみるとほとんど毎年1回は世界のどこかで見ることが出来る。天は地球のどこが都市でどこが田舎なのかということを知らないので、多くの場合、皆既日食を見に行くということは辺鄙な僻地(へきち)を訪ねることを意味する。この点で極地研究者の仕事と共通点があると言えるのでないだろうか。筆者は定年退職後の2009年の上海での皆既日食以降、いわゆる日食病に罹患して、2010年にタヒチ島の東900kmの絶海の孤島、Hao環礁、2015年には北海の真ん中の孤島、フェロー諸島などに行った。このどちらも筆者たちの日食ツアーが行く前にそこを訪れた日本人は数えるほどしかいないという辺鄙な場所である。今回はインドネシアのボルネオ島(カリマンタン島)の東隣のスラウェシ島に出かけた。以前はセレベス島と呼ばれていて、戦争中には日本の海軍の造船所があって壊れた軍艦の修理をしていたマカッサルと言う町もある。だから戦争中は日本人が沢山いたはずだが、戦後の70年間は多くの日本人からは忘れられた僻地と言っていいだろう。日食はマカッサルから約500km北のPaluという町で観測した。 記憶力の強い方は高校の生物でウォレス線という生物種の境界線が(当時の呼び方で)ボルネオ島とセレベス島の間を通っていることを習ったことを思い出せるかもしれない。検索したら地図が出てきたので、少し書き込んで図1に示す。この地図は左上から右下の斜めの赤い線が赤道という、ちょっと傾いた地図であることにご注意。真ん中で折れた細い破線がウォレス線で、この線より南東の島々はオーストラリアと共に南から移動してきたので、北西の島々の生物と違う種だということだ。カリマンタン島とスラウェシ島(今後は今の呼び名で)の間のマカッサル海峡の流れが速くて生物は渡ることができず、種の境界がはっきりしているそうだ。  
インドネシアとウォレス線 図1 インドネシアとウォレス線
航路 図2 航路
こういう辺境の地に行くときの筆者の習慣の一つはGPSを持って行くことだ。どこに行ったのか記録を残したいから。そしてその周辺の詳細な地図がない場合もあるから。図2は羽田からPaluまでの航路で、途中、電池の節約のため数回、スイッチを切った。カリマンタン島で曲がってくれればすぐにPaluなのだが、そういう定期便はないので、ジャカルタで一泊。ジャカルタから東に1000km以上飛んでマカッサルに立ち寄る。知ってはいたがインドネシアという国が東西にこんなに長いとはびっくりした。3つの時間帯がある。カリマンタン島やスマトラ島は本州よりずっと大きいし、ジャワ島だけでも1000km近くある。続く列島も入れると2000kmにもなる。さらに東のニューギニア島(の西半分)までインドネシアだ。 この広い国土(島々)の2億5千万人のひとびとが争いもなく暮らしているのは奇跡ではないかと思った。国内に大きな反政府勢力がいて事件が続いている他の国々に比べて平穏な暮らしが実現されていると思う。インドネシア語がどこでも通じるようでもある。インドネシア語はまったく知らなかったが、中国語のような抑揚がなく、発音も子音と母音の組み合わせで、おそらくカタカナで書けるのではないだろうか。音だけでみると日本語に近い言葉なのだろう。広い国を治めるのに宗教が役立っているのかと思ったが、そうではない。Paluではイスラム教60%、仏教30%、ヒンズー教やキリスト教などが10%ということだ。どの宗教も互いに許容することが一体感を作っているのかもしれない。雲が多かったが飛行機から地上がよく見えた。飛行機が飛んだジャワ海(日本海にならえば、「インドネシア海」と呼んだ方がよさそうに思ったが)は島々に囲まれて大規模な瀬戸内海のような海で、流れが弱いらしく、海岸はどこも陸地から流れ出た泥水が漂っている。日本の海岸が美しいのは流れが激しいためで、美しい海などと言っていられるわれわれは幸せなのだと新しい発見をした。 スラウェシ島は地図で見て感じるよりずっと大きな島である。我々がよく目にするメルカトール図法の地図では赤道近くは小さく描かれるから。スラウェシ島は細長い地形の中心に山岳が走っていて、町同士の連絡はとりにくく、それぞれの町は島内のほかの町と連携することなく、海の対岸の町々との交流を主としていた。飛行機が飛ぶようになったあとは島内の連絡もよくなったが。マカッサルが島で大きな町だと思うが、飛行場の上空から見る限り、それほど大きな町ではなく、昔あったはずの大きな港も分からなかった。水田や畑が美しく整備されていて、畑の面積に対して日本よりずっと多数の家屋が建っている。マカッサルからPaluまで600kmほどもある。ものすごい田舎町を想像していたが、なんと人口30万の大きな都市で、道路の両側には多数の家々、店がならんでいた。チョコレートのもとのカカオなど農業が主ということだった。北から50kmの細長い湾の底にある町。細長い湾で海水の入れ替わりが少ないので、海岸近くは泥の茶色。図3はPalu着陸前からのGPS経路。このGPS装置は安いけれど優れもので、拡大すると空港からホテルまでの途中でバスが立ち寄ったモールで筆者がどのように歩き回ったかまで細かく分かる。  
Palu着陸からホテルまで 図3 Palu着陸からホテルまで
日食で訪れた人もそんなに多くない(1000人以下?)Paluは普段は静かな町で、主な交通手段はオートバイ。免許を取って数年経つと5人まで(!)乗せてもいいらしい。実際、家族4人で乗っているのを見た。これはPaluに限らず、東南アジアで共通のようである。Honda,Yamaha,Suzukiなど日本のオートバイばかり。そのPaluで我々の旅行社は大型バスを用意した。北東のManadoという町からくねくね道を1000km以上、26時間かけてPaluに来てくれた。道路はそんな大型バス用にはできていないから、あちこちで道路わきの立木の枝がバスの天井をこすって、ざざざっと豪快な音を立てていた。幸い?バスの屋根にはアンテナなどはついていない。ひとびともはじめて見る大型バスにびっくりし、道端まで走ってくる子供たちも沢山いた。 日食の前日には町の学校を訪問して、日食の説明をして生徒の皆さんに日食メガネをプレゼントした(図4)。外国人がくることなど非常にめずらしいことで、われわれが入ったクラスには先生方も大勢見に来た。子供たちはナルト、ドラエモン、ヤマト、ピカチュウなど多くの日本語を知っていたが、すべてマンガ。マンガが日本の国際化に果たしている力のすごさに驚いた。日本の文字(漢字、ひらがな等)に強い興味を示し、特別授業の後、図5のようにメンバーはみな子供たちからのサイン攻めに会った。へとへとになって、アイドルたちの苦労がはじめて分かったと話し合った。あるメンバーが「大きくなったら日本に来てください」と言ったところ、「奨学金はもらえますか」という真剣な質問があり、一同たじたじ。。。インドネシアを発展させようという意気があふれんばかりの元気のいい子供たちだった。  
小学校、立っているのは校長先生 図4 小学校、立っているのは校長先生
サイン攻めに会うメンバー 図5 サイン攻めに会うメンバー
皆既日食という題の文なのにまえがきが長いな、これはきっと何かあったな、と思われた読者もおられるかもしれない。それはいい勘で、天気は上々だったのに、そして3台のカメラと3台のビデオカメラを準備したのに、カメラの設定などを誤って、ほとんどいい写真は撮れなかった。一定時間ごとにカメラのシャッタを切る装置を手作りしていたのに、シャッタが切れていないらしいことが分かり、設定のチェックなど、すぐに出来ることはやってみたがだめで、皆既の2分間は居直って肉眼で見ることにした。今までの日食ではカメラに気を使いすぎていたので、肉眼で長時間(2分間だが)ばっちりとコロナを見たのも新しく、いい経験だった。負け惜しみかもしれないが。 日食の観測は図3のホテルの湾に面したテラスから。赤道直下(南緯0.9度)でお彼岸近くなので、太陽はほぼ正確に真東から昇り、天頂を経て西に向かうというめったに見られないシチュエーションである。ホテルから湾の向こうに向こう岸の山が見え、その上から日が昇ってくる。朝の8時38分46秒が最大食。そのときの太陽の角度はほぼ45度。写真撮影には赤道儀を使うのだが、ここでは赤道儀の軸はほぼ水平。水準器を使ってアライメントしても使えるくらいである。一方、日本で作られている大抵の赤道儀は軸を水平にすることは想定していない。日食気ちがいの知人たちは赤道儀の一部を金鋸で切り取ったりして水平の設定も可能なようにしていたが、筆者はそもそも工作が好きなので、アクリルを使って自作した。家でのテストも行って万全を期したのだが、荷物作りの時に一番大事なねじを一本ふと入れ忘れてしまった。そのため観測計画は大幅変更をその場で考えることになり、赤道儀なしで可能な最良の撮影を試みた。赤道儀なしでは倍率の高い望遠鏡は使えないので、100mmのレンズのカメラが主カメラとなった。  
kozaki5 図6 ホテルのテラスで観測
だんだん欠ける太陽 図7 だんだん欠ける太陽
図6は湾に面したテラスで観測するわが一行のみなさん。この中には赤道儀を使っている人は少ない。図7は欠け初め(C1)から皆既開始(C2)までの太陽。太陽は欠けが大きくなりつつ登るので、それに合わせてこの図では上ほど後の時刻の写真である。このあと、1、2秒間のダイアモンドリングを経て皆既に入り、黒い太陽の周囲に白く美しいコロナが拡がる。その最初のダイアモンドリングが図8。偶然にうまく写っていたのを帰国後に発見した。自動追跡できないので100mmの視野の広いレンズを使った大きな画面に写っていたのを切り取ったのがこの写真で、ピントが甘く見えるのはしかたがない。ダイアモンドリングは1秒以下でもどんどん様子が変化するので、うまく撮影できるかどうかは運である。シャッタを押したときから実際に画像を撮影するまでの遅れ時間も影響するほどだから。  
ダイアモンド・リング 図8 ダイアモンド・リング
コロナ 図9 コロナ
図9が皆既中のコロナ。このとき、太陽円周付近の光の強度とコロナの先の光の強度の差異が非常に大きく、露出を変えて何枚も撮影しないと肉眼で見たようすは撮影できない。筆者はブラケッティングで露出の違う写真を9枚連続撮影するはずであったが設定エラーで撮影失敗。図9は何も処理しないで撮影したままのものだが、これほどうまく撮れたのは初めてである。肉眼で見ると太陽の周辺に赤いプロミネンスがいくつも見え、一時は太陽の周辺全部が赤く見えて、あれ?金環日食だったっけ?と思うほど。でも、同時にコロナも見えているので金環日食でないことは確かなのだが。この様子が撮影できた例は見たことがない。 しょうがないので、図10に下手なスケッチでお見せする。湾の向こうの山の上に太陽が昇り、皆既の時には逆三角の暗い空になる。月の影、本影錐である。今回は皆既中心線から離れた場所だったので、逆三角の角度が60度くらいと小さかった。2013年のケアンズ(マリーバ)の時はこれが100度くらいあった。この図の太陽とコロナは実際の比率の10倍以上に拡大してある。実は太陽や月の視角度は非常に小さいのだ(直径が角度で30秒)。そんな小さくては描けないので拡大した。注目部分を拡大することは絵の手法の一つでもある。左下に先がまるく鍵のようになったきわめて大きなプロミネンスが見えた。高さは地球の直径の5倍以上あるだろう。肉眼でかぎ形まで見えるのには自分で驚いた。これをきれいに撮影した知人もいる。「天文ガイド」や「星ナビ」という天文雑誌の4月号には沢山の美しい写真が投稿されるだろう。図10にも太陽周辺に赤でフレアをちいさく描いてあるのだが、印刷で出てくるだろうか。  
既中のスケッチ 図10 皆既中のスケッチ
回復する太陽 図11 回復する太陽
皆既の始まりと最後の時(C2とC3)では、かならずウォーとかキャーという声が上がる。実際に見ると、そのくらい感動的なものだ。図11は皆既の後、回復過程の太陽。図7と同じに上になるほど後の時刻。皆既が終わるとみんなで万歳を叫び、お祝いのビールが出てくる。そうして日食の方は、あとはどうでもよくなる。根気のある人だけが、太陽が円に回復する時(C4:Cはcontact。最初の欠け初めがC1。)までしつこく観測を続けている。筆者は根気がないほうである。 今回の成果は図8と図9だけだった。肉眼でしっかりコロナを見た、というのも大きな成果だ。今回もそうだったが、いろいろ計画しても計画通りの日食観測は出来たことがない。筆者も次回、2017年7月に北米大陸横断の日食にむけて、また準備を始める。今度こそは、である。

狐崎晶雄(きつねざき あきお)プロフィール

都立戸山高校で天文班に所属。以来天文に興味を維持。1972東大工学系博士課程卒、日本原子力研究所核融合部門、以後核融合一筋。2003年高度情報科学技術研究機構(計算科学)、2007年青山学院大学理工学部(光通信) 2003年に退職後、天文趣味を復活。著書:「新・核融合への挑戦」(ブルーバックス)、「青い地球を救う科学」(東京図書出版)、「Visualized World of Radio Waves and Light」(Amazon, Kindle book)など  
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