南極観測と朝日新聞その4
元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治
矢田喜美雄記者と早大山岳部を追い出した東大派閥?
敗戦後、僅か10年、まだ貧しかった日本が、国際地球観測年(IGY1957~58年)に参加して南極に観測隊を送ろうと提案し、実現させたのは朝日新聞の矢田喜美雄記者だったことは前回、記した。
南極観測隊は、観測を支える科学者たちが約半数、生活面を支える設営部門の人たちが約半数、といった構成になっている。朝日新聞社に設けられた事務局の設営担当として、設営部門を取り仕切っていたのが矢田記者だった。
矢田記者は、早稲田大学の学生時代、走り高跳びの選手としてベルリン・オリンピックに出場して5位に入賞した実績を持ち、その縁で早大山岳部の関根吉郎部長をはじめとする山男たちを引っ張ってきて、設営部門をやってもらおうと考えていた。
当時、早稲田大学山岳部と言えば、実績でも、実力でも日本では有数の山男たちの集団で、南極観測の設営部門を取り仕切るのに、最もふさわしい人たちだった。
濤沸湖での耐寒設営訓練で何があったのか?
観測準備作業の最大の圧巻は、北海道の濤沸湖で56年1月から2月にかけて、北海道の濤沸湖で行われた朝日新聞社主催の耐寒設営訓練だった。氷の張った湖上で建物を建てたり、雪上車を動かしたり、さらには小型機の離発着を試したり、往復100キロの雪中行軍があったり……。
この訓練には、すでに隊長に内定していた永田武氏をはじめ、副隊長の西堀栄三郎氏や次々と名前が挙がってきていた隊員候補たちがそろって参加したため、極めて重要な意味合いを持っていた。朝日新聞社からも幹部やスタッフが大勢参加した。
設営部門が中心の訓練だったので、当然、それまでのいきさつから矢田記者や早大山岳部の関根部長らが全体を取り仕切ったことはいうまでもない。
これが同じ大学の山岳部の集まりだったら、何も問題にはならなかったろう。なにせ全国から初めて集まってきた科学者たちと山男たちの混成集団である。矢田記者や早大山岳部の取り仕切る姿に、反感を抱いた人たちがいたことは想像に難くない。
矢田記者と永田隊長との軋轢が表面化したのは、この濤沸湖訓練のときだったといわれている。この訓練のハイライトともいうべき濤沸湖から川湯温泉までの往復100キロの雪中行軍にジープに乗って参加した朝日新聞社の広岡知男編集局長がその時の印象を回想記に残している。
「夕方、川湯温泉に無事到着した一行は、ひと風呂浴びた後、会食ということになったが、ここで険悪な空気が流れた。この訓練には、矢田君の勧誘を受けて、早大系など数人の人たちも参加していた。こうした事情も影響したのかもしれぬが、矢田君は興奮し、その姿が誰の目にも印象として焼きついた。そして、以来、永田隊長は、矢田君を一切の観測活動から除外する態度をとるようになった」
具体的に何があったのかは明確ではないが、この濤沸湖訓練を境に設営部門の準備の中心だった早大山岳部のグループが一歩後退し、やがて姿を消してしまうのだ。最も早くから設営部門の中心となって準備を進めてきた人たちが、第1次観測隊のメンバーにひとりも入らなかったという事実が、その異常さを物語っている。
代わりに設営部門の主導権を握ったのは、東大スキー山岳部だった。
最初は息があっていた永田隊長と矢田記者
永田隊長と矢田記者の軋轢は、濤沸湖訓練まではまったく見られなかったといっていい。軋轢どころか、最初の出会いから二人の意気はぴったり合っていたといっても過言ではない。
「南極観測に日本も参加しよう」と提案した矢田記者が、IGY日本代表の永田武氏を訪ねて意見を聞いたとき、永田氏は「日本の参加は無理だろうと諦めていた。朝日新聞が応援してくれて、それがかなうなら願ってもないことだ」と大喜びしていたという。
以来、その準備段階では、学者側を永田氏が、設営側を矢田氏が、と分担して、絶妙なコンビで動いていたといわれる。朝日新聞の南極事務局長を務めた半澤朔一郎氏によると、「二人とも自信家で、人のいうことを聞かない二人が、あんなにうまくいっていたことは、不思議でさえあった」と記しているほどだ。
永田氏は、若くして学士院賞・恩賜賞を受賞した天才的な学者で、東大の永田研究室でのあだ名は「大将」。人の言うことは聞かない「お山の大将」からついたあだ名だという。一方、矢田記者も天才肌の敏腕記者で、部長や局長の言うことを聞ないことで知られ、社内でもひときわ有名な記者である。
当時、二人とも43歳。天才は天才を知る、という言葉もある。不思議なほど二人の息が合っていたというのも、恐らく本当のことだろう。それがどこで、歯車が合わなくなったのか。
矢田記者も、永田隊長に嫌われたのが南極に行けなくなった原因だと思っていたようだ。のちに出た手記のなかに、こんな一節がある。
「私はこの計画が始まってから、基地の建物の設計から食糧や防寒装備まで手広く全般を見ていたのだが、突然、永田隊長から手を引けと言われた。私が外されるという理由は、永田隊長にいわせると実に簡単であった。『あいつはなまいきだ。南極は俺が考えたことだと、えらそうに肩をふっているじゃあないか。朝日が出したカネはちょっぴり、たった2億円ちょっとだよ。南極は政府事業だから朝日関係はつれていかんでもやれるんだ』というのであった」
矢田記者は、自分が身を引けば南極観測はうまくいくだろうから、と身を引いたが、腹のなかは煮えくり返っていたのだろう。手記のなかに、さらにこうある。「しかし、世間ではウワサが渦巻いていた。矢田は『宗谷』出航の日、晴海岸壁で永田隊長を海に叩き込むらしいぞ」と。
矢田記者は、自分が永田隊長に嫌われたのだと思っていたようだが、また、周囲の人たちは、天才同士、「両雄ならび立たず」だと見ていた人が多かったようだが、二人をよく知っている私の見方は、まったく違う。
矢田記者は、早大山岳部を設営部門から追い出すために、東大スキー山岳部が仕掛けた策謀によって、早大山岳部と一緒に追い出されたのだ。永田隊長は、その策謀に利用されただけなのである。
熾烈な大学山岳部の主導権争い
南極観測は、科学者と山男によって支えられてきた、と前にも記したが、南極観測に日本も参加するというニュースが流れてから、全国の山男たちは色めきたった。山男といっても大学の山岳部を中心に先輩・後輩といったタテのつながりしかないため、各大学の山岳部を中心に秘かに主導権争いが始まっていた。
そのなかで、矢田記者の縁で一歩先行したのが早大山岳部だった。関根部長のもとに現役やOBが集まって、設営部門についての研究が続けられていた。その状況に「面白くない」と思ったのが、東大スキー山岳部だった。永田隊長が東大教授であるという「地の利」を生かして巻き返しに出たのである。
南極観測の産みの親の一人である当時の日本学術会議会長の茅誠司氏の手記に、大学山岳部の主導権争いがどれほど熾烈であったかを述懐するこんな一節がある。
「大学の山岳部には、先輩たちが連綿とつながっていて、いわゆる閥というものをつくっている。今度の南極観測隊の設営部門にはどうしても山岳部関係者の協力を得なければならなかったが、それが、東大閥、京大閥、北大閥などとまことにうるさいことがからんで、わずらわされた。しかも、問題が起こって要求が提出されるのをみると、それは真正面からではなくいつも横向きであった」
つまり、茅氏のみるところ、山男たちの主導権争いは、陰湿なところがあって分かりにくく、手を焼いたということのようだ。
この主導権争いの結果は、永田隊長をうまく利用した東大スキー山岳部が「勝利」し、早大山岳部が「敗退」したのである。
矢田記者にとっての悲劇は、早大山岳部が設営部門から手を引いても、本人は報道記者として南極へは行けると直前まで思っていたことだ。
実は、朝日新聞社はかなり前から矢田記者がいけなくなる場合を予想して、密かに藤井恒男記者に越冬隊に潜り込むよう密命を与えていた。恐らく、そのことは矢田記者も知らなかったに違いない。
藤井記者は、同行記者ではなく航空部員として観測隊に参加し、西堀越冬隊の一員として立派に職務を果たしたことはいうまでもないが、「南極観測に日本も参加しよう」と言い出した、文字通り南極観測の産みの親である矢田記者が、山男たちの主導権争いのとばっちりで南極に行けなくなったという結果は、なんとも残酷なことではあった。
柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール
元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。 |