シリーズ「南極観測隊〜未知への挑戦」 第4回

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南極オゾンホールの発見-最初の出会い

第23次南極地域観測隊員 忠鉢 繁

はじめに  南極オゾンホールは、8月から9月ごろ南極上空に出現し、12月頃には一度消える。そして翌年の8月から9月ごろまた出現する。これを毎年繰り返す。現在は毎年観測されているこの現象を、我々第23次日本南極地域観測隊が1982年に昭和基地で越冬中に観測し、1984年にギリシャで開かれた国際会議(オゾンシンポジウム)で発表した。この発表が世界で最初の南極オゾンホールの報告となった。本稿ではこのことについて記す。本当は南極オゾンホールについて述べる前に、その前提となるオゾン、オゾン層、オゾン観測について説明するべきなのだが長くなるので、自分達の経験を中心に述べる。 タロとの出会い  1956年、第1次南極地域観測隊が晴海埠頭を出港した時、私は小学2年生だった。約10年後、1967年に北大に入学し、札幌の北大植物園を散策したときに、植物園の博物館の裏に大型の真っ黒い犬が飼われているのを見かけた、それがタロだった。これが南極の冬を生き延びた犬かと感動したことをおぼえている。  1973年、気象庁に就職した。2年間の札幌勤務の後、1975年、つくば市にある高層台気象観測第2課勤務になり、1977年に、オゾン層の観測を行っている観測第3課勤務となった。1980年10月、勝浦高層気象台長(当時)から呼び出しがあり、台長室に伺うと、「来年出発する第23次南極地域観測隊が、大気オゾン観測を担当する隊員を探している。希望するかどうか」とのことであった。しかし、当時まだ2歳の幼い娘がおり、南極出発前にもう一人産まれて来る予定であった。幼い子供達を日本に残して南極観測隊に参加するのが良いのかどうか悩み、妻に相談すると、「子供達は私が世話をする。心配せず南極観測隊参加を希望するように」との即答であった。妻の答えに励まされ、翌日、台長に、「希望します」と返答をした。翌1981年4月、南極観測隊参加準備のため気象研究所に転勤した。7月1日に辞令が交付され、南極観測隊員に正式に決定した。 観測準備  オゾン全量(ある地点の地表から大気上端までに存在するオゾンの総量)は日光を用いてオゾン全量の観測を行う。昭和基地は南緯69度の高緯度にあるため、冬期には太陽高度角が小さくなりオゾン全量の観測が出来なくなる。このため4月頃から9月前半ごろまではオゾン全量のデータが十分には得られていなかった。この期間を日光の代わりに月光を用いて観測することを計画した。月光によるオゾン全量観測は、1969年に実施されていたが、この1年だけであった。23次隊では、可能な限り観測回数を多く行い、さらに太陽光による観測との比較も行うことにした。また、オゾン垂直分布を観測すべく、気象定常担当が用意した15台と合わせ全50台のオゾンゾンデを準備した。
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写真1.南極観測船「ふじ」。1982年11月25日、晴海埠頭出発当日の朝

南極昭和基地での越冬観測  1981年、星合隊長率いる第23次南極地域観測隊は、南極観測船「ふじ」に乗船し、晴海埠頭を出港した。昭和基地上陸後、2月に22次隊から引き継いで観測を開始した。観測は同じ気象庁から参加した気象定常観測チーム(吉平,首藤、梶原、佐々木各隊員)と協力して行った。4月に入り、太陽高度角が小さくなり日光による観測が出来なくなり、月光を用いた観測に切り替えてオゾン全量観測を行った。5月、6月、7月、8月も太陽光による観測はできず、月光によるオゾン全量観測を継続した。これらの観測を通じて、月光によるオゾン全量観測は冬期の南極においては、有力な観測手段であることが明らかになった。9月に入ったが、日光によるオゾン全量観測はまだ出来ず、9月4日未明まで月光によるオゾン全量観測を継続した。  9月4日の昼、数ヶ月ぶりに日光によるオゾン全量が観測できたが、その値は230DU(ドブソン・ユニット)で、過去に昭和基地では観測されたことのない小さな値だった。同様の小さな値はその後一ヶ月以上続けて観測され、10月28日に正常と思われる値に回復した。その後11月8日から9日にかけ、再び230DUまで小さくなったが、その後すぐ正常と思われる値に回復した。1983年1月、交代の24次隊が到着した。その後、1983年1月31日で我々の越冬期間は無事終了した。2月1日、我々23次隊は南極観測船「ふじ」に移動し、帰国の途についた。
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写真2.南極昭和基地における1982年の月光によるオゾン全量観測風景

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写真3.昭和基地における1982年のオゾンゾンデ観測

1983年、帰国後の日本で  1983年3月21日成田空港に帰国した。4月20日、南極観測船「ふじ」が帰国し、観測データが手元に戻り、データ整理に取りかかった。夏頃までにはオゾン全量、オゾン垂直分布の季節変化の全体像が浮かび上がってきた。データ整理の過程で、やはり1982年9月から11月のオゾン全量が小さすぎることが問題となった。1981年以前にはこのような小さい値のオゾン全量は観測されておらず、観測装置が故障したのではないかと随分悩んだ。しかしいくら調べても、観測装置の異常を示すデータも、誤観測の可能性を示す証拠も見つからなかった。それで観測結果を発表することにし、論文「1982年2月から1983年の昭和基地のオゾン層の特別観測の速報」を国立極地研究所で開催された第6回極域気水圏シンポジウムで発表した。しかし、当時南極上空のオゾン層は主流の研究課題ではなく、参加者の興味をひくことはなかった。  しかし、後から考えると重要なことが二つあった。一つは1983年10月ごろ、24次越冬隊員として昭和基地にいた牧野行雄隊員から国際電話があり、24次隊も昭和基地で小さすぎるオゾン全量を観測して困っているという連絡があったこと、もう一つは、当時極地研の教官だった神沢博先生(現名古屋大学教授)から、「来年(当時)1984年に、ギリシャのオゾンシンポジウムが開かれるので、それを目標に報告をまとめると良い」というアドバイスを頂いたことである。 国際的な場での昭和基地オゾン観測の結果発表  昭和基地での観測結果を国際的な場で発表するため、1984年ギリシャのハルキデキで開かれた「4年に一度のオゾンシンポジウム」に参加した。米国のローランド教授をはじめ、名前しか知らない有名なオゾン研究者が世界中から訪れており、本当に感激した。会議の中心的な話題は、人工衛星に搭載された最新鋭のオゾン層の観測装置の紹介や、電子計算機によるオゾン層のシミュレーションの結果紹介などであった。しかし南極上空のオゾン層に関する研究発表は、自分の発表だけであった。発表した内容は、本シンポジウムでの発表論文集(プロシーディングス)に掲載され、国際的にはこの発表が、「南極オゾンホール」の世界で最初の論文となった。  1985年8月、ハワイ(ホノルル)でIAMAP/IAPSOの会議があった。私はこの会議で、昭和基地で行った地上オゾン濃度観測の結果を発表した。このとき面白い出会いがあった。国立極地研究所の山内恭先生(現国立極地研究所名誉教授)から英国南極調査所(BAS)の人が昭和基地のオゾン観測の担当者に会いたいと言っているという連絡があり、会ってみると、最初はお互いの観測方法とか研究所の様子とかを話していたのだが、最後に「ところで最近南極のオゾンがおかしいと思いませんか?」と聞かれた。私は自分のデータを思い浮かべながら、「そういえば、最近少なくなっているような気がしますが」と答えた。すると彼は、「私もそう思います。世界中であなたと私だけが南極のオゾンの減少を知っているのですね」と話した。そしてお互いの論文を交換して別れた。彼は、1985年5月科学雑誌「ネイチャー」誌上に英国の南極基地ハレーベイ(南緯76度、西経27度)のオゾン全量の減少を報じた論文の第二著者のブッイアン・ガ‐ディナー博士であった。この時、昭和基地以外でもオゾン全量減少が観測されていることを初めて知った。 1986年TOMS によるオゾンマップ  1986年、米国の人工衛星ニンバス7号に搭載されたTOMS(オゾン全量観測用分光計)により観測された南極上空のオゾン全量の分布が「ネイチャー」誌上に発表された。彼らの論文は、1979年~1985年にかけ、南極上空の10月のオゾン全量が年々減少を続け、さらに年々オゾン全量の小さな領域が広がっていたことを報告していた。国立極地研究所は、1986年12月に、ハレーベイ基地のオゾン全量の論文の第一著者のファーマン博士とニンバス7号TOMSによる観測結果を報じた論文の著者の一人クルーガー博士(米国NASA)を日本に招待し、彼らの話を直接聞く機会を設けた。クルーガー博士はNimbus7号TOMSにより観測された1979年から85年までの10月の南極上空のオゾン全量の日々のオゾン全量を記した16mm映画を持参した。この映画フィルムは、日本の研究者に南極上空のオゾン層に大きな異変が起こっていることを確信させた。
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写真4.1986年12月11日、国立極地研究所極域気水圏シンポジウム参加のため来日したファーマン博士とともに。

モントリオール議定書採択  1987年9月16日モントリオール議定書が採択された。本議定書はオゾン層保護のためのフロン/ハロン規制の国際的な取り決めである。フロンは冷媒やスプレー缶の噴射剤として、ハロンは主として消化剤として使われている化学物質であり、多くの種類がある。成層圏でフロンは塩素を、ハロンは臭素を放出しオゾン層を破壊する能力が高い。最初の議定書は大気中の塩素濃度を減少させるためには不十分であったが、1990年のロンドン改正、1992年のコペンハーゲン改正により、大気中の塩素濃度の増加を押さえ込める見通しがたった。オゾン層を破壊する能力が特に強い特定フロン、ハロン(議定書内では付属書A)を全廃し代替フロン(HCFC))、代替ハロン(HBFC))も規制した効果が大きいと思われる。 1988年の二つの国際会議  1988年に二つの国際会議が開かれた。一つは、5月に米国コロラド州スノーマスで開かれた「極域オゾンワークショップ」である。この会議には、自分もプログラム委員会のメンバーとして名前を連ねる名誉を得た。1986年の米国オゾン調査隊、1987年のAAOE(航空機による南極オゾン観測)の結果が報告された。発表された多くの論文が、オゾンホール発生時の南極上空で、高い濃度の塩素酸化物(一酸化塩素および二酸化塩素)が観測されたことを報告していた。この高濃度の塩素酸化物はフロンに由来していると考えられ、いわゆる「化学説(フロン犯人節)」がオゾンホールの原因であることを支持していた。  もう1つは、8月に西ドイツ(当時)のゲッチンゲンで開かれた「4年に一度のオゾンシンポジウム」である。1988年はまだドイツは再統一の前で、東ドイツと西ドイツに分かれていた。ちなみにドイツの再統一は1992年である。4年前のギリシャのシンポジウムとは異なり、南極オゾンホールは会議の主要なテーマになっていた。シンポジウムの第1日目に南極オゾンホールに関する総合報告があり、4年前のギリシャでのシンポジウムでの私の発表も紹介された。尊敬する世界中のオゾン層の専門家の前での紹介であり、本当にうれしかった。会議中、フロンによるオゾン層破壊の可能性を最初に指摘したローランド教授と話をさせて頂く機会があり、「自分たちの、フロンガスがオゾン層を破壊するという仮説を、君たちの南極オゾンホールの発見が証明してくれた。ありがとう。」という言葉を頂いた。ローランド教授はこの翌年1989年に日本国際賞を、さらに2005年にノーベル化学賞を受賞した。

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写真5.1986年8月西ドイツ(当時)のゲッチンゲンで開かれたオゾンシンポジウムで米国ローランド教授とともに

 この会議中で発行された小雑誌「オゾン研究者たち・・、歴史的調査」の中の「Milestones(一里塚)」の一節に、4年前のギリシャでのオゾンシンポジウムでの発表も紹介されており、本当にうれしかった。南極オゾンホール発見および原因についての論争はここまでだったと思う。これ以降は、世界の研究の主流は、南極オゾンホールの将来予測に向かった。それらをまとめると・・・・。 オゾンホールの将来 1.1987年に採択されたモントリオール議定書の数度の改正により、フロン、ハロン関連のオゾン層破壊物質は、ほぼ完全に規制されつつある。この結果、各種フロンガスの大気中濃度の低下が観測されている。フロンガスの濃度の低下に伴い、いずれ南極オゾンホールは数十年~100年には回復、消滅に向かうであろう。しかし、私が生きている間にオゾンホールの消滅を見届けるのは無理かな? 2.では、現状はどうであろうか。これについては、我が国におけるデータの入手しやすさを考えると、南極オゾンホールが最大に発達する10月の昭和基地の月平均オゾン全量が最も良い指標だと思う。結果は図1に示す。回復傾向は見られるが、しかしホントかな・・・というところだろう。それなりに将来の予測をしながら、一年一年データをつみかさねていく・・・・、これが未知への挑戦なのだということを、改めて認識して頂きたい。特に南極地域では観測所の数が少ないので、一年一年のデータの積み重ねが特に重要である。日本が南極観測を続ける理由もここにある。
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図1.南極昭和基地の10月 月平均オゾン全量の年々の変化(データは気象庁ホームページより入手)

最後に  多くの先輩・友人の協力に恵まれ、南極オゾンホールの第1報を世の中に送り出すことが出来た。幸運に恵まれていたとも思う。これらの研究に対して、母校の北海道大学から博士(理学)の学位を授与され、さらに何度かの表彰(気象庁長官表彰;1988,日系地球環境技術賞;1991、吉川英治文化賞;1993、日本気象学会堀内賞;1998,気象文化功労賞;2010)も受けさせて頂いた。幸せな研究人生だったと思う。目を閉じると今でも当時の昭和基地の風景が浮かぶ。しかし、あれから三十数年、さすがに記憶もあいまいになり、すべてが、良い思い出の彼方に消えつつある。そのようなときに、思い出をふり返る機会を与えて頂いた日本極地研究振興会の皆様に深く感謝する。

忠鉢 繁(ちゅうばち しげる)プロフィール

1948年北海道生まれ。1971年北海道大学理学部卒業。同大学院修士課程修了後、気象庁に入庁、札幌管区気象台、高層気象台、気象研究所で勤務する。1981~1983年、第23次南極地域観測隊に越冬隊員として参加する。1994年に博士(理学、北海道大学)の学位を取得。2009年に気象研究所を定年退職し、千葉科学大学教授となる。2014年に同大学を学定年退職。趣味はハーモニカ(2014年ハーモニカアジア大会複音シニアの部3位)、バドミントン。
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