シリーズ「南極観測隊エピソード」 第7回

南極観測と朝日新聞その7 4次越冬の福島伸隊員の遭難死

元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治

 生きていたタロ、ジロを発見した第3次隊の活動をピークに、南極観測事業に対する国民の関心もしだいに冷めてきて、朝日新聞社も特派員を同行させることを、第4次隊をもって一旦打ち切り、第5次、第6次隊には同行記者を送らなかった。
 第4次隊に送り込まれた朝日新聞の同行記者は犬養堯記者で、優れたセンスを持った名文記者として知られていた人だったが、なにせ1,2,3次隊に比べて4次隊ともなると、南極観測に対する国民の関心もがくんと落ちて、紙面の扱いも悪くなり、犬養記者は南極で切歯扼腕していたに違いない。
 4次隊も3次隊と同様、大型ヘリコプターによる空輸を中心に展開されたが、「宗谷」が3次隊より昭和基地に近いところまで侵入できたことと、空輸作戦にも慣れてきたせいか、3次隊の3倍近い150トンもの物資を運び込むことに成功し、3次隊とは比較にならないほど余裕をもって15人の第4次越冬隊を成立させた。

村山雅美氏、鳥居鉄也氏の大活躍

 第4次越冬隊の隊長は、鳥居鉄也氏だった。第3次越冬隊長だった村山雅美氏と同じ、東大スキー山岳部の出身だ。南極観測隊は、観測を担当する科学者たちと設営を担当する山男たちの二つのグループからなり、山男たちの主導権争いは熾烈で、最初、中心になって準備を続けていた早大山岳部が途中から姿を消し、代わって東大スキー山岳部が主導権を握ったことは前に記した。
 村山氏と鳥居氏は1,2,3次の隊長を務めた永田武氏の側近として観測隊の運営を取り仕切り、越冬隊長を3次村山、4次鳥居、5次村山と二人でやり遂げたので、永田隊長後の南極観測の主役は、この二人だったといっても過言ではない。
なかでも村山氏は、マナスル登山隊に参加して登頂したあと、帰国してすぐ第1次南極観測隊に隊員として参加し、第2次越冬隊の隊長に予定されていたが、越冬できなかったため、第3次隊長となり、さらに第5次越冬隊長として昭和基地の「店じまい」も担当したのである。
「ミスター南極!」と呼ばれるのも不思議はない。

福島隊員は犬に餌をやりに出て行方不明に

話を4次隊に戻して、4次隊の最大のニュースは越冬隊の福島伸隊員の遭難死だった。それも基地の目と鼻の先、カラフト犬に餌をやりに行ったまま、行方不明になったというのだから、南極ならではの遭難死だろう。
その日、昭和基地は激しいブリザード(雪あらし)のなかにあった。南極のブリザードは、アムンゼンの手記にもあるように伸ばした手の先が見えなくなるほど激しい。私もブリザードのなかで実際に伸ばした手の先が見えなかったことを実体験したから間違いない。
ここから先は想像だが、福島隊員はブリザードのなかで転んだのではあるまいか。そして起き上がったら方向が分からなくなったのだろう。恐らく基地はこの方角だったはずだと思う方向へ歩き出したが、基地の姿はない。
そこで福島隊員はじっと動かずにいれば、捜索隊に発見されて助かっただろう。しかし、いま出てきたばかりの基地のことだから、近くにあるに違いないと、探し回って歩き続けたに違いない。そして、基地からどんどん遠く離れて行ってしまったのだ。
福島隊員の行方不明に気づいた越冬隊員たちは、全員総出で周辺を探し回った。来る日も来る日も探したが、見つからない。ついにあきらめざるを得なかった。故国から遠く離れて、一緒に暮らしていた仲間が、忽然と姿を消したことを心底から納得することはなかなかできなかったに違いない。4次越冬隊の隊員たちは、本当につらい思いをしたことだろう。
越冬隊員たちは、基地の建物に近いオングル島の浜辺に、福島隊員を記念してケルンをつくった。「福島ケルン」と名付けられ、いまも存在している。

8年後、6キロ離れたところで遺体が

福島伸隊員の遺体は、それから8年後に、昭和基地から6キロも離れた西オングル島で見つかった。福島隊員は、相当な距離をさまよい歩いたに違いない。南極は気温が低いため、遺体は生前そのままの姿で見つかったという。昭和基地で荼毘に付し、遺骨が故国に帰った。
福島隊員は、京都大学出身の優れた科学者で、オーロラの観測と研究を担当していた。当時、30歳。生きていれば、きっと素晴らしい業績を残した研究者になっていたことだろう。また、日本の南極観測を支えるリーダーの一人になっていたに違いない。
福島隊員の遭難をきっかけに、南極では絶対に一人で行動してはならないという取り決めを徹底し、常に二人以上で行動することとした。幸い、日本の南極観測事業は、始まってから60年間、福島隊員以外に死者は出ていない。各国の南極観測隊に比べれば、極めて好成績だといっていいだろう。

「宗谷」の老朽化で、6次隊をもって一旦打ち切りに

 観測船の「宗谷」が老朽化したため、日本の南極観測事業は6次隊をもって打ち切りということになった。再開するかどうかは、その時点では、まったく決まっていなかったのだから、それで終了となってもおかしくなかった。
村山隊長ら第5次越冬隊によって昭和基地は「戸締り」され、それからは誰も住んでいない空き家になったのだ。
幸い、関係者の努力で南極観測は新観測船を造って再開し、昭和基地も3年10か月後に第7次隊によって再び開かれるのだが、その話は次号に。
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第4次越冬隊は基地にいた越冬隊員全員で最後の捜索を行った。右から5人目が吉田隊員、7人目が鳥居隊長(1961年1月、福島ケルン前で、吉田栄夫提供)。

柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。

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