シリーズ「南極観測隊エピソード」 第8回

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南極観測と朝日新聞その8 
4年間中断して新造船「ふじ」で再開へ

元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治

 日本の南極観測事業は、観測船「宗谷」の時代が1次隊から6次隊まで続き、「宗谷」の老朽化でいったん中断し、昭和基地は第5次越冬隊によって戸締りをされ、無人の状態に置かれていた。  その時は、再開されるかどうか決まってなかったが、このまま南極観測をやめてしまうのは残念だという声が各方面から沸き上がり、新しい砕氷船を建造して再開しようという機運が盛り上がった。再開には、朝日新聞社も積極的に応援したが、最大の功労者を一人挙げよと言われれば、私は躊躇なく村山雅美氏の名前をあげたい。  観測再開の最大の功労者は村山雅美氏だった  村山氏は、これまでにも何度も登場したように、マナスルに登頂して帰国後すぐに南極観測隊に入り、1次、2次、3次隊員として参加、3次越冬隊長、5次越冬隊長と、1次から6次まで「宗谷」時代の全てにかかわった「ミスター南極」ともいうべき人であることは、前にも記した通りである。  その村山氏が、再開を強く望んだ理由は過去の思い出からではなく、未来にやり残したことがあると考えたからだった。村山氏の夢とは昭和基地から南極点まで「拠点旅行」をやり遂げることだったのだ。  村山氏は、南極観測再開のカギを握るのは、政治家だと考え、政治家に南極を見てもらおうと、若手ながら政界の実力者、中曽根康弘氏と長谷川峻氏を口説いて、南極へ連れて行ったのである。米国に頼んで、米国のマクマード基地から南極点のアムンセン・スコット基地まで回ってきたのだ。  これが功を奏して、中曽根氏らの努力で再開が決まり、新しい砕氷船の建造も決まった。ただ、中曽根氏が奔走したことで、中曽根氏の意向により、観測船とヘリコプターの運用を海上保安庁から海上自衛隊に変えることになったのが大きな変化だった。  これには日本学術会議などから反対の声があがったが、ヘリコプターのパイロットなど要員の確保が海上保安庁では難しいということが決め手となって、海上自衛隊に決まったのである。村山氏は、もともと海軍の出身なので、反対ではなかったようだ。  新観測船の名前を公募、「ふじ」と決まる  新しい観測船は、「宗谷」のざっと2倍の大きさで、砕氷力は格段に高まり、当時の世界最高水準の観測船が誕生した。名前を何とするか、全国から公募したところ、たくさんの応募があり、その中から「ふじ」が選ばれた。  富士山の富士だったのだろうが、海上自衛隊ではすべて船にはひらがなの名前を付けているので、「ふじ」としたのである。砕氷船は、氷に閉じ込められることが多いので、船底は丸くなっている。氷に押しつぶされないよう、浮き上がるようにしているためだ。  また、砕氷船は「氷を割って進む」というが、実際は氷の上に乗り上げて踏みつぶすように進むものだ。そのため舳は、氷の上に自然にのし上がるような形になっている。  船尾に「宗谷」より一回り大きなヘリコプター用の飛行甲板があり、2機の大型ヘリと偵察用の小型ヘリ1機の格納庫がある。  氷がぎっしり詰まった海を進むときには、氷に体当たりを繰り返すため、エンジンは前進と後退がすぐ切り替えできるように電気推進方式になっている。つまり、「ふじ」はディーゼルの発電機と電動機のエンジンを積んだ船なのだ。  こんな新造船によって、日本の南極観測は4年ぶりに再開したのである。  第7次隊、隊長に村山雅美氏、同行記者に朝日新聞社から私が  再開第1次の7次隊の隊長には、村山雅美氏が選ばれ、また、同行記者には「宗谷」時代の朝日新聞と共同通信という2人から3人に増やし、新たにNHKからも派遣されることになった。新聞からテレビの時代に移りつつあったときだから、それは当然のことだったといえよう。  その7次隊の同行記者に朝日新聞社から私が選ばれた。当時、私は入社6年目の30歳、そんな新米記者がどうして選ばれたのか、その経緯を語るとざっとこんなことだ。  南極観測が始まったのは、私が大学生のときだった。科学者になるのを夢見て、地球物理学を専攻していたので、南極にはひときわ関心が高く、そのうえ、私たちに地球電磁気学を教えていた永田武教授が授業の途中から隊長になって南極に行ってしまうという縁もあって、「将来、私も科学者となって南極に行きたいな」と夢見ていたのである。  1次隊が帰国したあとの5月祭で「南極展をやろう」と私が提案し、朝日新聞社に写真を借りに行ったりしたのも、南極への関心が高かったからだ。科学者への夢を捨てて新聞記者になったのは、南極とは関係ないが、朝日新聞社の提言で南極観測が実現したのを見て、「新聞社って、こんなことまでできるのだ」という思いが背中を押してもらったように思う。  入社して最初の任地、水戸支局で、原子力研究所の理事となった第1次越冬隊長、西堀榮三郎氏と出会い、次の任地、北海道支社で、帰国したカラフト犬タロと出会い、また、退役した「宗谷」に乗せてもらってオホーツク海の氷海のルポ記事を書かせてもらったりもした。  北海道支社時代に、北大の楠宏氏や木崎甲子郎氏らと親しく接しられたことも幸いした。 南極観測再開の1年前に東京本社の社会部に転勤になり、無人の昭和基地をソ連の飛行機で見に行く松田達郎氏と木崎甲子郎氏を取材できたうえ、木崎氏に昭和基地の写真と記事を頼めたこともよかった。  こうした様々な縁が重なって、それに、「南極に行きたい」と私が積極に手を挙げたことで、7次隊の同行記者に選ばれたのである。「宗谷」時代で探検の時代が終わり、新しい科学の時代に入ったのだという意識が朝日新聞社の幹部にもあり、私にやらせてみようと考えた動機だったようだ。  1965年11月、私は観測船「ふじ」に乗って、南極へ向かったのである。

柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。
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