観測隊の内陸行動を支えた雪上車
国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二
1. はじめに
南極大陸行動での命の綱は、雪上車です。日本隊は、かつて小型航空機を越冬運用し内陸でも活用したが、緊急事態が起きたとしても天候に左右されるため、現場に急行できるものではありません。そのため、行動中の最終的な拠り所は雪上車でした。いったん雪上車のキャビンに入れば、とりあえず強風と寒さから身を守ることができます。その後、基地と無線連絡ができ、温かい室内で食事をして、夜は簡易ベッドで眠りにつけます。
雪上車の第一の目的は物資・人員の輸送であることは明白ですが、隊員のシェルターとしての機能も重要です。第9次隊が行った昭和基地から南極点までの往復調査旅行のために開発したキャビン型雪上車は、観測から生活までのすべてがこの中で賄えるという、コンパクト性を特徴とした日本隊独自のものでした。いっぽう、外国隊は、牽引力のある農業用トラクターを使って、その後ろに大型橇(そり)を何台も牽引してトラバース旅行を行う方式を採用してきました。牽引する大型橇には生活に特化した橇も含まれ、キャンプ地に着けば、この橇に備え付けてある発電機での電力供給はもちろん、暖房・造水を行い、食事後は、ベッドのある別の居住橇で快適な睡眠がとれます。
ここでは、日本隊がこれまで使用してきた雪上車の開発と運用の歴史を辿ってみることにします。また、外国隊の最近の情報も最後に紹介したいと思います。
2. KC、KD型小型雪上車
第1次隊は、小松製作所が作った小型雪上車4台を昭和基地に持ち込みました。ガソリンエンジン標準車(KC20-3S)2台と後部にレッカーを搭載したガソリンエンジンレッカー車(KC-20-3R)1台、デーゼルエンジントルコン車(KD20-1T)1台です(図1)。砕氷船「宗谷」から基地までの氷上輸送では、海氷上にできたパドル(夏期の日射でできる水たまり)に悩まされ、何度も雪上車水没の危険に見舞われましたが、最小限の越冬物資を運び揚げることができました。
図1 第1次隊で持ち込んだ小型雪上車
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第1次の11人の越冬隊員と共に昭和基地で越冬を開始した時の樺太犬は19頭でした。当時は、長期間の旅行の輸送手段としては、雪上車よりも犬が主流でした。1911年から1912年にかけて南極点初到達を争ったアムンセンとスコットの時代とあまり変わらなかったのです。しかし、西堀越冬隊長は、1957年4月18日から23日にかけて、雪上車を使った初めての旅行を行いました。1号車と3号車の2台を使い、東オングル島からオングル海峡の海氷上を北上し、とっつき岬から南極大陸に取り付きました。急な斜面を登ったところから南下、ラングホブデの長頭山を目指したのです。しかし、途中で3号車のネジのナットが脱落し、履帯(キャタピラ)を駆動するスプロケットが抜けかかっていました。西堀隊長は、何としても長頭山まで行きたかったが、安全を懸念した同行隊員の反対に会い、泣く泣く昭和基地に引き返したのでした(文献1)。
これが雪上車を使った日本隊の初めての大陸旅行でした。第1次越冬中の雪上車の走行距離は、4台合計でも1,000km程度でした。第3次越冬隊では、基地の南東350kmの内陸に2台の雪上車で1か月間の往復旅行を行うなど、延走行距離は2,900kmに達しました。第4次隊では2台でやまと山脈の往復に成功しました。さらに第5次隊では、南緯75度、標高3,500m付近まで到達、気温-40℃を経験しました。第6次隊でいったん基地を閉鎖するまでに持ち込んだ雪上車は、ガソリンエンジン仕様のKC20型4台とディーゼルエンジン仕様のKD20型6台の計10台でした(文献2)。
3. KD60大型雪上車の開発
第7次隊が新砕氷船「ふじ」で東京から南極に向けて出発したのは、基地閉鎖から3年後の1965年11月20日でした。観測再開の目玉の一つが昭和基地から南極点までの往復調査旅行です。このためには、大型雪上車が不可欠でした。要求された性能は、以下の通りです(文献3)。
・エンジンは平地から4,000mの高地に対応できること。
・気温-60℃で走行できること。
・橇を含めて約8トンの重量を牽引できること。
・走行距離6,000kmに耐える強度と耐久性を有すること。
・観測機器、通信機などを室内に搭載し、往復5か月の生活に耐える居住性をキャビン内に有すること。
・エンジンの点検整備を容易にするため、雪の侵入を防ぐ構造とすること。
・キャビン内に4人分の仮設寝台、居住設備を設けること。
南極本部から依頼を受けた防衛庁技術研究本部が設計し、小松製作所が製造を担当しました。KD60型と名付けられた試作1号車は、1965年1月に完成し、国内各地で性能試験を行った後、翌1966年1月、薄い海氷上を9トンの雪上車が走行することで困難を極めましたが、何とか第7次隊により昭和基地に陸揚げされました。
第8次隊が持ち込んだ2号、3号車は、7トン台に軽量化し、接地圧も低減しました。接地圧とは、車両重量を雪面に接する左右2本の履帯(キャタピラー)の接地面積で割った数値で、少ないと軟らかい雪でも履帯の沈み込みが少なく、橇の牽引力も増すため、雪上車設計上の重要な事項です。
4. 第8次隊による米国プラトー基地往復旅行
第9次隊による南極点往復旅行の準備として、南緯79°15’、東経40° 35’にある米国のプラトー基地までの往復旅行を行いました。この旅行の目的は、KD60型雪上車の走行テストと燃料のデポでした。1967年11月初旬から翌年1月中旬までの72日間、往復2,630kmという日本隊としては初めての長期内陸旅行でした。この旅行中の最低気温は-42℃を記録しました。
使用した雪上車は、大型雪上車3台(KD601、KD602、KD603)とガソリン仕様の小型雪上車(KC20)1台でした。南緯74度付近から軟雪帯になり、橇の牽引力が大幅に落ち、計画通りの輸送はできませんでしたが、プラトー基地から3トンの軽油を譲り受け、何とか、燃料・その他で10.5トンの物資をデポすることができました。
この旅行により、雪上車の性能が、高度3,000mを超えると極端に劣化することが判明しました。また、サスツルギを乗り越える時の橇の走破性では、大型橇より中型の木製橇が優れていることがわかりました。橇については、このメールマガジンの第3号に詳しく書きましたので参考にして下さい。
5. 第9次隊による南極点往復旅行
村山雅美隊長が率いた第9次隊の陸路による南極点到達は、世界で第9番目でした。極点への初到達はアムンセン(1911年)とスコット(1912年)ですが、トラクターや雪上車の機械力を使って行ったのは、英国南極横断隊のヒラリー(1958年)とフックス(1958年)が初めてでした。
村山隊は、1968年9月28日に昭和基地対岸の見返り台(通称F16またはS16)を出発し、83日後の12月19日に南極点に到達しました。帰路は12月23日に南極点を出発、翌1969年2月15日にS16に帰着しました。行動日数141日、総行程5,180kmでした。雪上車はKD603、604、605、606の4台と橇16台の編成でした(図2)。標高が最高点付近でKD603のエンジントラブルが発生し、この車両を放棄して3台による行動を余儀なくされまた。この旅行で足枷になったのは、橇でした。自重2.3トンの大型鉄橇と2.6トンの鉄製大型カブース橇は、長いランナー(滑走面)のせいで、雪上車の舵取りが困難でした。そのため、南緯75度までに使用を中止、木製橇だけの編成で乗り切りました。
図2 南極点往復旅行に使用したKD60型雪上車
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この南極点往復の実績により、KD60型雪上車の信頼性は確かなものになり、1969年の第10次隊で、7、8号車、1974年第15次隊が9号車を持ち込み、雪氷部門の調査旅行に活躍しました。しかし、軟雪に弱く、牽引力も小さいなどの性能上の問題とメーカーの部品供給も難しくなったため、9号車を最後に製造を打ち切りました。
6. SM50型雪上車
第12次隊の時、「ふじ」は7次隊以来、はじめて接岸できず、KD609の揚陸はできませんでした。第15次隊になって海氷上70kmを走行してようやく昭和基地に搬入されました。このような状況下にあって、1973年頃から、分解してヘリコプターで輸送できる新型雪上車の検討が始まりました。KD60型雪上車より軽量で、2トン積み木製橇を3台以上牽引でき、高度3,000m、-50℃の低温性を持つ居住設備を備えた雪上車が計画されました。いっぽう、防衛庁は1970年から重量5トンクラスの雪上車の開発に取り掛かっており、1974年に第1次試作車を製造し試験走行を行っていました。この防衛省78式車両を元に南極仕様に改良したのが、南極用SM50型雪上車でした。新潟県長岡市にある大原鉄工所が請け負い製造した1号機は、第18次隊が昭和基地に持ち込みました(図3)。
図3 SM50型雪上車
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履帯(キャタピラ)をゴムベルト式にし、5個の転輪にはニューマチックタイヤ(空気入タイヤ)を採用しました。その結果、車両重量は5,450kg、接地圧は空車で11kP(0.11kg/cm2)に落とすことができました。第19次隊が2号車、20次隊で3、4号車を持ち込みましたが、1980年の第21次隊では、海氷状況が悪く、初めてヘリコプターにより分解空輸を行いました。
第23次隊までに10台を搬入しましたが、設計条件ギリギリの過酷な観測旅行も増えていきました。第23次隊の冬明け旅行では、駆動軸の歯車が折損するという致命的なトラブルが発生したため、原因究明などの対応に追われました。このSM50型は、第31次隊までに合計22両を南極に搬入し、その間、みずほ基地への人員・物資補給、みずほ高原、やまと山脈、セール・ロンダーネ山地、ドーム基地選定調査などに使用され、年間2,000kmから3,000kmにおよぶ走行実績を残しました。
7. SM100型雪上車
第28次隊から32次隊まで5年間にわたって越冬観測を終了したあすか基地に代わって、昭和基地から約1,000km離れたドームふじ基地の建設準備が始まりました。真っ先に必要になるのは、低温性と牽引力を兼ね備えた新型雪上車でした。開発のための新たな委員会を立ち上げ、1991年2月には試作1号機を完成させ、国内で走行試験、基本性能試験などを実施後、その年に出発した第33次隊で2両を南極に持ち込みました。
完成した車両は、キャビン一体型で、総重量11,500kg、2トン積み木製橇7台を牽引して5~8km/hで走行できる性能でした。接地圧は、南緯75度以南の軟雪での走行を想定し、13kP(0.13kg/cm2)を目標にしました。低温始動性は、プレヒーターで冷却水を温める方式にし、気温-60℃まで走行できます。これまでの車両と大きく違うのは変速機です。大型化した影響で、機械式変速機では変速時の操作が難しいため、自動変速機を採用しました。1992年、第34次隊で103号機、第35次隊で104号機を持ち込み、基地建設資材の輸送に活躍しました(図4)。
図4 ドームふじ基地に向け勢揃いしたSM100型雪上車と橇
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また、ブルドーザ3台も導入し輸送力の増強を図りました。その結果、第35次隊で基地の建物は完成し、第36次隊からドームふじ基地での越冬が始まりました。
2007年1月には第47次隊がドームふじ基地で3,035mまでの氷床掘削に成功し、基地選定調査から約20年間にわたって行った一大プロジェクトは一応終了しました。その後、2007年11月14日から翌年1月26日まで、日本・スウェーデン共同トラバース旅行を第48次越冬隊と第49次隊が実施しました。使用した車両は、SM111、112、114、116の4台で、1台の平均走行距離は3,281kmでした。最近では56次隊が17台目を持ち込みました。いっぽう、外国製として初めて牽引能力の大きいドイツ製大型雪上車が第55次隊から導入されています。
8. ドームふじ基地建設物資輸送のために導入したブルドーザ
SM100によるドームふじ基地の燃料や建設資材の輸送を増強するため、合計3台の土木用ブルドーザを、32次隊で1台、34次隊で2台搬入しました。車両重量13トン、接地圧は20.6kP、2トン積み木製橇9台(約29トン)を牽引できる小松D40PL-5です。重すぎて「しらせ」のクレーンでは荷降ろしできないので、分解してヘリコプターで直接大陸に運搬し組み立てました(図5)。
図5 大陸上で組み立てたブルドーザ
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日本隊にとってブルドーザまたはトラクターによる本格的な利用はこれが初めてでした。しかし、第32次隊から35次隊まで使われただけで、その後使用されることはありませんでした。それは、雪上車と違い、サスツルギを乗り越える時の衝撃が激しこと、速度が遅く、雪上車のペースと合わないことなどが主な理由でした。しかし、価格も安い上、大きなトラブルの発生もなかったので、サスツルギの少ないルート選定などを行えば、充分使えるものです。最近、日本隊ではGPSを使った無人走行機能を備えたトラクターを持込み、南極での走行実験を開始しています。
9. 外国隊が内陸輸送に使用している車両と橇
現在、内陸で通年越冬している基地は、米国のアムンセン・スコット南極点基地、仏・伊共同で運営しているコンコルデア基地、ロシアのボストーク基地の3個所です(図6)。
図6 各国の内陸越冬基地と輸送経路
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これらの基地は、1000km以上離れた沿岸にある基地から毎年、大量の物資輸送が必要です。これに使われる車両は、大型の農業用トラクターを改良したものです。重量が30トン以上あり、40~60トンもの物資を牽引することができます。雪上車に比べて価格も安く、10km/hの高速で走行できます。また、米国は、従来の発想とは全く異なるシート橇を使って南極点基地に燃料を運んでいます。橇というと2本のランナー(滑走面)の上に荷台があるイメージですが、ランナーと荷台を兼ねた1枚のシートを橇替わりにしました。材質は高分子量ポリエチレンで、耐摩耗性と耐寒性および強度を兼ね備えたスグレモノです(図7)。
図7 米国の南極点旅行隊のトラクターと燃料橇(文献4)
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10. 今後の内陸輸送用車両
日本南極観測隊の内陸行動は、第9次隊の南極点往復旅行から、深層掘削のためのドームふじ基地まで、長い歴史があります。そこで使われた車両は、キャビン型の雪上車でした。この雪上車は観測と輸送を兼務したものですが、大量の物資輸送には物足りない性能でした。内陸基地運営の成否は、何と言っても輸送力が鍵を握っています。従来の雪上車に代わる輸送に特化した大型トラクターなどの導入が求められます。そのためには、砕氷船からの荷降ろしや輸送ルートの検討が必要です。また、これまで使ってきた2トン積み木製橇から脱却した新たな橇の開発や使用も急務となっています。外国隊の動向や新製品の情報にアンテナを広げて新たな輸送方法を模索するなど、従来の方法にとらわれない柔軟な発想が求められます。
文献
(1) 西堀栄三郎:(昭和33年) 南極越冬記, 岩波新書
(2) 文部省:(昭和57年)南極観測25年史
(3) 細谷昌之:(2001年)日本の雪上車の歩み, 国立極地研究所
(4) James H. Lever and Jason C. Weale : (2012年) High efficiency fuel sleds for polar traverses, Journal of Terramechanics 49 207-213
石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール
国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。
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