シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」 第10回

南極での小型航空機の利用
-スコットの係留気球から「宗谷」搭載のセスナ機まで-

国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二

1. はじめに
 南極での探検や科学観測活動をするためには、何と言っても人員や物資の輸送がいちばん大事です。海には海氷が立ちはだかり、通常の船では太刀打ちできず、砕氷船が必要です。陸地では特殊な雪上車や橇が欠かせません。ところが、空に目を移すと、気温が低いだけで、通常の航空機が利用でき、海や陸と比較して抵抗が少なく楽に移動できます。そのため、南極探検の早い時期から航空機利用の試みはなされてきました。未知の領域を偵察するには空が最適で、写真撮影により地図がつくられました。そして現在では、大型輸送機により、雪上車などの大型物資も輸送できるようになりました。1956年から始まった日本の南極観測隊もヘリコプターの他に小型航空機を活用しています。今回は、小型航空機に焦点をあて、その歴史を振り返ってみたいと思います。

2. スコットの係留気球
 南極上空の利用に先鞭をつけたのは、なんと、1911年から1912年にかけて南極点初到達をかけてノルウェーのアムンセンと争い敗れた英国のスコットでした。スコットは、自ら隊長を務めた第二次探検隊で極点到達後、自分も含めた5人全員が帰路に遭難死しましたが、スコットの第一次探検は、南極点初到達を目指して1901年から1904年にかけて行われました。このときは、シャックルトンも隊員として参加しました。1901年12月24日にニュージーランドを出発したデスカバリー号は、翌年1月8日にロス海のアデア岬に到着します。船は、ビクトリアランドの山岳急斜面に沿って南方の状況をうかがいながら進みます。ここで登場するのが偵察用に持ち込んだ係留気球です。自らこの気球に乗り込み180mの高さまで上がりました。2番目に乗り込んだのはシュックルトンです。南極上空からの写真撮影を初めて行いました。この気球は、水素ガスの浮力で浮上するものでした。(1)。

ishizawa_1

図1 スコットの係留気球 “Eva” 1902年2月4日(2)

3.モーソンの航空トラクターそり
 オーストラリアの南極探検家で地質学者のダグラス・モーソンは、スコットから南極点を目指す第二次探検隊に誘われましたが、これを断り、自らの探検隊を組織しました。調査地をオーストラリア南方のジョージ5世海岸やアデリーランドに絞り、南極でまだだれも実現しなかった航空機の利用を計画しました。航空機によって、地形の偵察、物資の輸送、捜索救助活動を行う計画でした。英国に資金集めに行った折、スコットの奥さん(キャサリン・スコット)に航空機計画についての話をしました。彼女は大の航空ファンで、軍隊のお偉方を介して船舶と航空機の製造会社であるヴィッカー社を紹介してくれました。モーソンは、世界に8台しかない60馬力の単葉機を1台購入し、オーストラリアのアデレードに蒸気船で輸送しました。しかし、1911年10月5日、競馬場でテストフライト中に、機体が損傷する事故が起きて飛行が不可能になりました。
 ここで諦めないのがモーソンの凄いところで、彼は飛行機の翼を撤去し、胴体の骨組だけ残し、スキーを取り付け、プロペラを推進力とする「航空トラクターそり」に改造したのです。その機体と燃料をオーロラ号に積み込み、1911年12月2日にホバートを出港しました。デニスン岬の基地で越冬中に、小さな格納庫を作り、その中で様々な改造を行い、夏になってから、橇4台を牽引して出発しました。しかし、16km進んだ所でエンジンのシリンダーからオイルが漏れ、走行不能となりました。寒さのため、エンジンオイルが凍りピストンリングが破損したとの診断でした(3)。結果的にはアイデア倒れになりましたが、後のホーバークラフトの利用に繋がったように思われます。

ishizawa_2

図2 モーソンの航空トラクターそり(3)

4. ウイルキンスの南極初飛行
 南極の航空機利用の開拓者としては、アメリカのバードが有名ですが、彼が飛行したわずか2か月前に南極で初飛行をした人がいました。ウイルキンス(Wilkins)とアイエルソン(Eielson)の2人でした。彼らは、1928年11月6日、南極半島の北にあるデセプション島から飛び立ち、南極半島の沿岸伝いに南下し1,200マイルの往復飛行に成功しました。そして、南極半島が半島というよりは、多くの島でできた群島であると主張しました。しかし、これは上空から見た氷河を海氷の海峡と見間違ったことが後になって判明しました。彼らは、南極に来る前の1928年4月15日に人類初の北極横断飛行も行っています。スキー付きのロッキードベガ単発機を使って、アラスカのポイントバローからスバールバル島までの2,500マイルを20時間で飛行しました。
 ウイルキンスは南極から帰った後、再び北極に挑戦します。こんどは、海洋から北極点にアプローチしたのです。解体予定の米国海軍の老朽潜水艦を年間1ドルで借り、「ノーチラス」と命名、北極海に潜航し、1931年8月23日、北極点から600マイルの地点まで進みました。しかし、船体の故障が発生し、英国に戻らざるを得ませんでした。その後船体は、米海軍の許可を得て、ノルウェーのフィヨルドに沈め破棄しました。これからしばらく経った1958年8月3日、同名の原子力潜水艦「ノーチラス」は、北極点を潜航して通過しています。さらに、1959年3月17日、米国海軍の原子力潜水艦「Skate」が厚い氷を破り北極点に浮上しました。この時、クルーがデッキに整列し、礼砲でウイルキンスを追悼し、雪が舞う中、遺灰が撒かれました。彼の功績は、①飛行機で北極海横断を初めて行った、②南極での初飛行、③北極海を潜水艦で最初に探検したことがあげられます。カメラマン、航空パイロット、科学者など多彩な顔を持つ極地探検のパイオニアでした(4,5,6)。
オーストラリアは、ケーシー基地から70km離れた大陸氷床上に大型ジェット機が離着陸できる滑走路を2007年に開設しましたが、彼の功績に因んで「Wilkins Aerodrome」と名付けました。ウイルキンスは、南オーストラリア生まれで、アデレード鉱山学校で学び飛行技術も習得しています。

ishizawa_3_cut

図3 初飛行後のウィルキンス(右)とアイエルソン(左)(6)

5. リチャード・バードの活躍
 南極航空を開拓したと言われる米国のリチャード・バードの第一回探検が行われたのは、1928年から1930年にかけてでした。航空機、航空機用カメラ、スノーモビル、通信機などを使った新時代の幕開けとなる探検隊でした。バードは、2隻の船に航空機3台を積んで1929年1月初旬にロス海に到着し、アムンセンが南極点初到達に使った小屋から4km離れたところに小屋を建て、リトルアメリカと名付けました。初飛行を行ったのは1929年1月15日で、ウイルキンスの初飛行から10週間の遅れでした。バードはこの基地で越冬し、11月29日にフォード4AT3発機に4人が乗り込み、南極点上空に到達しました。そして、かつて北極点飛行を一緒にやり遂げ今回の探検出発の間際に亡くなった僚友の名を付けた「フロイド・ベネット号」の上空から、彼の墓石に米国国旗を結びつけて投下しました(7)。その後、1933年~35年に再び探検隊を組織し、100万km2の広大な領域を調査し、それまで想定されていたロス海とウェデル海をつなぐ海峡はなく、南極大陸は一つであることを示しました。
 戦後の1946年/47年のシーズンには、海軍で昇進したバード少将は、「ハイジャンプ作戦」の指揮を執り、海軍艦船13隻、航空機23機、人員4,700人を投入し、南極海岸線全域の約60%におよび航空写真撮影を行いました(8)。

6. エルスワースの南極横断初飛行
 エルスワースはシカゴに生まれた資産家で、アムンセンの飛行艇による北極海探検などに資金援助をしています。また、ウイルキンスのノーチラス潜水艦による北極海探検にも参加し、ウイルキンスが技術的アドバイスをしてこの横断計画を立案しました。1933年から1936年まで3回実施し、最後の年にようやく成功しました。南極半島付近の島からロス棚氷のリトルアメリカまで、2,200マイル、20時間の飛行でした。第1回目の探検では、600馬力のエンジンを積んだ”Polar Star”と名付けたノースロップ単葉機を400トンの船に載せロス海に向かいました。しかし、テストフライ後、海氷にうねりが入り機体のスキーと胴体が割れ目に落ちて飛行不能となり、持ち帰りました。第2回目は、かつてウイルキンスが南極初飛行を行った南極半島付近のデセプション島から、ロス海を目指す飛行ルートで試みましたが、エンジンの故障や悪天候のため、断念せざるを得ませんでした。3回目は、新しいパイロットを雇い、1935年11月23日、エルスワースとケニヨンの2人でDundee島を出発しました。3,000mの高度に達し、ウイルキンスがかつて主張した、南極半島は群島であるという主張は間違っていることを発見しました。航空機が西経80度を通過する時、米国国旗を投下し、この付近を父に因んでジェームズ・エルスワース・ランドと命名しました。同日の21:55、位置を確かめるために着陸し、ここに国旗を立て、西経80度から120までを米国領と主張しました。その後ブリザードなどで3回も緊急着陸をして嵐をやり過ごし、12月5日朝上空に上がるとようやくロス海が見えました。しかし、約1.7klの燃料を使い果たし、1時間後に不時着、クジラ湾まで約25kmの地点でした。ここからそりを牽いて小屋を探し、11日後の12月15日、半分埋まったトラクターを探し当て、バードの無線小屋に転がり込むことができました。そして、1ヶ月後に救援に来たディスカバリー2世号に収容されたのでした。

ishizawa_4

図4 エルスワースの南極横断飛行ルート(http://www.south-pole.com/p0000110.htm)

7. 米国のデープフリーズ作戦
 米国は、1955年12月、3,840km離れたマクマード基地までの大陸間フライトを実施し、大型航空機を利用した人員と物資の輸送が始まりました。これについては、このシリーズの4回を参考にして下さい(8)⇒シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第4回

8. 日本の第1次~6次隊までの航空機利用
8.1 第1次隊のセスナ「さちかぜ号」
 1955年(昭和30年)11月4日に南極観測に参加することを閣議決定した後、急ピッチで準備が始まりました。航空関係では、12月21日、日本学術会議の茅会長が、日本航空学会の守屋富次郎会長あてに、観測事業への協力を依頼しました。航空学会では、特別委員会を設置して1次隊で使用する機種や現地での使用方法について検討し、意見書を提出しました。その概要は、①海上保安庁が「宗谷」に搭載予定のベル47型ヘリコプターは、200馬力の小型機で搭乗者2名の他ほとんど搭載能力がないため、2機のうち1機は大型の機種にすることが望ましい。②「宗谷」以外に随伴船を運航し、フロートを装備したデ・ハビランド社のビーバー機を持ち込み、氷海に入る前から偵察飛行を行うこと。この機種は450馬力の単発中型機で、9名が搭乗でき、増槽タンクを装着すれば665マイルの航続距離を持っている。以上の内容でした。その後、宗谷への搭載場所や航空機の契約発注などで紆余曲折があった後、最終的には、海上保安庁所属のベル74G2機と朝日新聞社所有のセスナ180型1機の「宗谷」への搭載が決まりました。セスナは、開水面から離着陸できるようフロートと雪面用の橇を持ち込みました。また、随伴した海鷹丸には、朝日新聞社のベル47Gを搭載しました(9)。

ishizawa_5

図5 「宗谷」から開水面に降りるセスナ「さちかぜ号」/span>

 1957年1月7日、エンダービーランド山地を望見できる地点の流氷域に到着し、ヘリコプターで氷上偵察を行いつつ、上陸地点を探しました。現地での会議で、東経38度から40度間から進入し、セスナ機で長距離偵察飛行を行い、基地候補地を探すことになりました。1月16日、セスナ機の離着陸に好適な海水面を発見し、プリンスオラフ海岸の偵察を行いました。その結果、リュツオホルム湾東岸に露岩地帯を見つけ、それに向かって「宗谷」は突入を開始しました。その後、隊長をはじめとする関係者がセスナに搭乗・視察し、基地建設にふさわしい地形などを考慮して、オングル諸島が最適であるという結論に達しました(10)。1月25日には宗谷の砕氷航行の最終地点から氷上輸送がはじまりました。1月29日に西オングル島の昭和平で国旗を掲揚して、昭和基地と命名しました。さらに南極大陸の露岩地帯に隊長と宗谷艦長がヘリコプターで行き、国旗を掲揚してここも基地の一部としました。最終的な基地は、東オングル島に決まりましたが、決め手となったのは、東オングル島北岸は平坦な緩傾斜地で、雪上車のアクセスが容易であると共に、氷上飛行場に好適な定着氷原があることでした。「宗谷」は、日本出発時の海上保安庁長官との取り決め通り(11)、多くの物資を海氷上に残したまま2月15日12:00に定着氷を離岸し、帰路につきました。その後、ソ連のオビ号の救援により、2月28日に氷海を離脱しました。セスナの飛行回数は20回、37時間55分の飛行時間でした。ヘリコプターは、氷海での「宗谷」の誘導にもっぱら使われ、飛行回数108回、84時間40分の飛行時間を記録しました(12)。

8.2 第2越冬を断念し、1次越冬隊を収容したビーバー機「昭和号」
 「宗谷」のプロペラピッチを変更し、推力を約20%アップさせ出発しました。ヘリコプターは、ベル47G型2機改良型に変更しました。さらに観測隊の固定翼機をセスナ180から性能の優れたデ・ハビランドDHC-型ビーバー機に変え、愛称を「昭和号」としました。越冬隊員20名、観測・設営資材650トンの態勢で出発しましたが、1月6日にビセットされ、約40日間漂流を余儀なくされました。2月7日、救援に駆けつけた米国のバートンアイランド号と会合、翌日から南進を試みましたが、氷状悪く前進できませんでした。昭和号は、家族からの手紙や新鮮食料を昭和基地に輸送し、2月11までに越冬隊員11名全員と犬6頭を「宗谷」に収容しました。越冬準備に送り込まれていた2次隊の3名と犬4頭も2月14日に「宗谷」に帰還し、2月24日に2次隊の越冬断念が決まりました。ビーバー機の飛行回数は26回、24時間50分の飛行時間でした。ヘリコプターは、54回、54時間30分でした。

8.3 大型のシコルスキーS58型ヘリコプターを導入した第3次隊
 2次隊の越冬断念を受け、輸送方法の再検討を行い、大型ヘリコプターによる空輸と雪上車による氷上輸送で実施することになりました。ベル47G2型2機、スコルスキーS58型2機とビーバー機1機を持ち込みました。宗谷の航空要員は2次隊までの6名から一気に18名体制となりました。1959年1月14日、「宗谷」は南進が困難になり、大型ヘリコプターによる輸送を始めました。「宗谷」の横にあった大氷盤に臨時ヘリポートを作り、1機はここから離発着し、別の1機は宗谷甲板ヘリポートを使いました。この輸送で56.9トンを輸送し14名の越冬が可能になりました。また、嬉しいことに犬2頭が生存していたのです。昭和号の出番は、空撮の4回だけで、総飛行時間は、6時間35分でした。ヘリコプターは、58往復141.7時間と、計画した100時間を上回る実績を残しました。

ishizawa_6

図6 新たに導入したシコルスキーS58

8.4 ヘリと雪上車による輸送 -第4次隊
 このシーズンは固定翼機の持ち込みはありませんでした。1960年1月2日、昭和基地から74km離れた定着氷縁から第一便の空輸を行いました。1月1日に会合したソ連のオビ号は、第1期空輸終了後氷海離脱まで行動を共にしました。ソ連基地で越冬中に使う航空機用ガソリンを輸送する任務があったためです。この地点からの空輸は77トンでした。ここで特筆すべきことは、1月4日、雪上車3台が昭和基地まで98kmの距離を18時間30分かけ15.4トンの物資を氷上輸送したことです。「宗谷」は、場所を変えて3期に分け空輸を行いました。その合計は、空輸・氷上合計で154トンに達しました。2月5日、第3期の地点からまたしても2台の雪上車が100km、20時間走行し基地にたどり着いています。

8.5 第5次隊
 シコルスキーS58の1機が国内で試験飛行中、横転・大破したため、防衛庁から脚構造の異なる同型機を借用し、前年同様ヘリコプター4機体制を堅持することができました。1月9日、昭和基地から50マイルの地点に氷盤ヘリポートを設営し、1月10日から空輸を開始、その後、場所を変えて空輸を行い、98便、総輸送量121.4トンを完了し、16人が越冬しました。

8.6 セスナ機のスリングと主翼切断 -第6次隊
 ヘリコプター4機の他に、海上保安庁所属のセスナ185型機を空撮のため持ち込みました。このセスナ機は、購入後間もない新品でした。胴体や主翼・尾翼を分解し「宗谷」に積み込み、大型ヘリコプターで昭和基地までスリング輸送、組み立てて運用する計画でした。1月5日に氷海に進入し、昭和基地まで114マイルの相当離れた地点から空輸を行いました。胴体は問題なく昭和基地に到着しましたが、主翼を収めたコンテナのスリング輸送は難航しました。風に煽られ2時間かけて緊張の連続でした。1月9日に組み立てを完了し、昭和基地の北の浦に滑走路を整備し、写真撮影を行い、2月6日に分解しました。翌7日、左右主翼を1梱包にした木枠をスリング輸送しようとしたところ、動揺が激しく、大型ヘリに接触、やむなく木枠を氷上に切り落とし、雪上車で基地に収納しました。スリングは無理との判断で、主翼をやむなく切断、機内輸送で「宗谷」に持ち帰りました。セスナの飛行時間は、31時間15分でした。幸いにも切断した主翼は、帰国後修復し飛行可能となりました。また、1月13日、昭和基地で虫垂炎患者が発生し、天候の悪い中、宗谷に収容するというパプニングもありました(12)。
 海上保安庁による「宗谷」の6度に亘る航海はこれで終了し、昭和基地はその後3年間無人の基地となります。第7次隊以降のことは、次回に記したいと思います。

ishizawa_7

図7 セスナ胴体とスリング輸送するS58ヘリコプター

9. 参考文献
(1) Lt.col.C.V.Glines,U.S.A.F. (Ed.): Polar Aviation, Franklin Watts, Inc., pp108-112
(2) Robert Keith Headland (2009): A Chronology of Antarctic Exploration. pp235 
(3) Air-tractor sledge from Wikipedia
(4) Hubert Wilkins, Wikipedia
(5) Richard E. Bohlander (Ed.): World Explorers and Discoverers, Macmillan Publishing Company, pp453-455
(6) William James Mills: Exploring Polar Frontiers, A historical Encyclopedia, Vol.2, pp708-713
(7) 加納一郎:極地の探検、加納一郎著作集Ⅰ、バードとウイルキンス pp67
(8) 石沢賢二:シリーズ:南極観測隊の生活を支える技術 -その4 雪氷上滑走路-
    日本極地研究振興会発行メールマガジン第4号(2016年1月15日)
(9) 藤井恒男(1961):南極観測と航空機について、On the aircrafts used by the Japanese Antarctic Research Expedition. Antarctic Record, No7, 南極資料No.11, pp.304-306
(10) 文部省:「南極6年史」昭和38年3月30日
(11) 加納一郎:極地の探検、加納一郎著作集Ⅰ、昭和基地の発見 pp313 
(12) 宗谷航空の会:「南極の空を翔ぶ」南極観測船宗谷航空科の記録(平成8年)

石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール

国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。

ページ上部へ戻る