南極観測と朝日新聞その10
元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治
砕氷船「ふじ」を新造して、4年間の空白を経て再開された日本の南極観測事業は、「宗谷」時代とはまったく変わった「新時代」の幕開けだった。ひと言でいえば、「学術探検」の時代から「科学観測」の時代に入ったのである。
その再開第1次の、7次隊の同行記者に選ばれた私を乗せて、「ふじ」は最初の寄港地、オーストラリアのフリーマントル港に着いたところまで前号に記した。
フリーマントル港に隣接する西オーストラリア最大の都市、パースの美しさには感動した。私にとって初めての外国という要素も多少あったかもしれないが、湖に面したパースの姿は、その後世界のあちこちを訪れたいま思い浮かべても、「世界一、美しい街だ」と断言できるような気がする。
その街を歩いていたら新聞売りの少年が「ニュース・パイパー!ニュース・パイパー!」と叫んでいる姿とぶつかった。「そうだ、オーストラリアではAをアイと発音するのだ」と聞いていたことを思い出した。
記者3人は、政府の招待で鉄鉱山の取材に
私たち同行記者3人は、フリーマントル港に着く前に、オーストラリア政府から「国内旅行に招待したい」という申し出を受けていた。日本に輸出する鉄鉱石を掘っている鉱山とその輸出港を取材して、日本に報じてもらいたいという趣旨である。
もちろん私たちは喜んで招待を受けると返事をしていたので、寄港の翌日から3日間の旅に出た。乗り物は小型飛行機である。だだっ広いオーストラリアは飛行機でなければ、旅行に時間がかかりすぎる。
私たち3人は、鉄鉱山も輸出港もしっかりと取材して、それぞれの社に原稿を送った。これは南極取材ではないので、すべてのメディアへの共通記事ではない。それでも日本から記者を招待するのに比べれば、南極同行記者を使えば経費も安く済む。オーストラリア政府も味なことをやるものだ。
この招待旅行で、「ふじ」寄港中の私たち3人の記者はゆっくり骨休めというわけにはいかず、あわただしく過ごした。とはいえ、燃料や新鮮な野菜などの食糧をたっぷり積み込んだ観測船「ふじ」に乗り込む前に、自由な時間が持てた。その時間を使って私は、新婚の妻あてにコアラの縫いぐるみを送った。
暴風圏を超え、やがて静かな氷海に
オーストラリアから南極に向かって南下すると、すぐに南半球特有の暴風圏に突入する。「吠える40度」「叫ぶ50度」といった言葉があるように、いつも暴風が吹き荒れている海域を通過しなくてはならない。
船内で揺れてもいいようにペンギンの人形まで縛り付け、「さあ来い!」というような気合を込めて暴風圏に突入していった。もちろん船底の丸い船は大揺れに揺れたが、東京湾を出たところで大揺れを体験していたため、今度は船酔いもせず、すんなりと暴風圏を乗り切った。
やがて氷山や海氷の浮かぶ氷海に出ると、海は暴風圏がうそのように静かになる。隊員たちはみな船室から甲板に出て、氷海を眺める。そのとき、「宗谷」時代に南極を訪れたことのある隊たちが「おお、この匂い!」と叫ぶのを耳にした。
氷海に匂いがあるわけではないが、久しぶりに南極に戻ってきた感激を表わした言葉だったのだろう。初めて氷海に入った感動に浸っていた私には、ひときわ印象深い言葉だった。
海氷はだんだん密になり、「ふじ」に積み込まれた小型ヘリを飛ばして航路を捜しながら、少しずつ南下を続け、やがて、これ以上は進めそうもないという硬い氷盤にぶつかり、接岸することになった。昭和基地から約50キロの地点だ。
すると、船が接岸しようとしているところに1羽のペンギンが立っているのが見えた。そのまま接岸するとペンギンにぶつかるかもしれないと心配した船長の配慮で、船員たちが舳から竹竿でそのペンギンを追い払った。
そして、氷盤に接岸してアイス・アンカーを打ち、船を固定したら、アッと驚く光景が出現した。ペンギンが次から次へと海中から飛び出してきて、船の周りに続々と集まってきたのだ。その数、ざっと500羽!竹竿で追い払ったあのペンギンが、ペンギンの世界の新聞記者で「変なものが来たぞー!」とみんなに知らせたのに違いない、といった話をしながら見ていた。
500羽のペンギンが出迎え、「見学者席」つくる
アデリー・ペンギンという身長50~60センチの小さな種類のペンギンである。海の中からロケットのように飛び上がってきて、氷盤の上にすっくと立つ。うまいものだが、なかには着地に失敗して転ぶペンギンもいる。
それを眺めながら、体操の選手が鉄棒の演技で着地に失敗する姿を思い出し、転んだペンギンに「ただいまの選手、減点!」と叫んで、はやし立てたりした。
氷盤上に立ったペンギンは、20~30羽ごとにグループを組み、よちよちと船に向かって歩き出す。どうもグループごとにリーダーがいるように見える。ちょっと幼稚園児の遠足の光景のように見えるところが何ともおかしい。
ペンギンは人間を少しも怖がらない。作業をしている人たちのすぐそばまでやってきて「何しやってんの?」という顔をして見つめている。
そこで、私はこんないたずらを思いついた。「見学者席」という立札をつくって「ここで見ていなさい」と立てたら、「何だ?何だ?」と立札の前に集まってくるではないか。まるで見学者席という文字が読めるかのようで、何ともおかしかった。
そんなペンギンたちに見送られるかのように、一番機が物資と隊員を乗せて昭和基地へと飛んだ。それに、私たち同行記者3人も同乗したことはいうまでもない。(以下次号)
柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール
元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。 |