シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第14回

南極観測を支える海上輸送 その1 南極・北極で活躍した耐氷船

前国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二

1.はじめに

 南極観測を行うのに欠かせないのは、何といっても輸送です。観測の成否は輸送に掛かっているといっても過言ではありません。このシリーズではこれまで、雪上車・トラクター・橇による陸上輸送と飛行機・ヘリコプターによる航空輸送について記述してきましたが、海上輸送については触れていませんでした。日本の南極観測隊は、第1次~6次隊までが海上保安庁所属の「宗谷」が輸送を担当しました。第7次隊からは運航担当が海上自衛隊に移行し、「ふじ」が就航し、25次隊からは「しらせ」にバトンタッチして現在の「二代目しらせ」に至っています。そういう経過から、筆者にとっては、「海上輸送はついては、船舶を運用する官庁にお任せ」という意識があり、取り上げなかったのが実情です。ただ、それでは輸送の全体像を知っていただくためには、片手落ちであることに気づいたため、今回から取り上げることにしました。まずは、南極や北極で活躍した主な船について、その歴史的な側面をたどってみたいと思います。

2.はじめて南極に向かったエンデバー号

 地球が球体であることは、古代ギリシャ時代から唱えられていました。しかし、このことを初めて証明したのは、1522年に世界周航を達成したマゼラン艦隊でした。マゼランは、大西洋からマゼラン海峡を通って太平洋に抜けましたが、この時発見したフェゴ島を南方大陸の最北端だと思っていました。しかし、1578年ドレーク海峡が発見され、フェゴ島は島であることがわかりました。古代ギリシャ時代から、地球の南には、未知の南方大陸があると信じられていました。図1は、1587年にメルカトルが作成した世界地図です。南に大きな大陸が描かれています。この地図を見ると、オーストラリア大陸がヨーロッパにはまだ知られていなかったことがわかります。

図1 1587年にメルカトルが作成した世界地図。オレンジ色の陸地が未知の南方大陸。

 この南方大陸を自国の領土にしようとしたのが英国でした。石炭運搬船の見習い船員から、海軍士官にのし上がったジェームズ・クックは、英国軍艦「エンデバー号」の指揮官に抜擢され、南方海域に出航しました。エンデバー号(図2)は、もともとは、全長32.3m、全幅8.9m、重量397トンの石炭運搬船で、大きな積載量、船体強度、浅い喫水が特徴であったため、暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するのに適した帆船でした。クックの第1回航海は、金星観測を大義名分として掲げていましたが、本当の狙いは南方大陸の探索にありました。他のヨーロッパ諸国に目立たないように、小さな船でプリマス港を出港しました。1768年8月8日のことでした。この航海では、ニュージーランドが南方大陸につながっていないことや、ヨーロッパ人として初めてオーストラリアを発見するなどの成果をあげました。しかし、オーストラリア北東部沿岸のグレートバリアリーフで座礁したため、寄港地で修理を重ねて何とか英国に帰還しました。

図2 クックの第1回航海に使われたエンデバー号。Francis Joseph Bayldonによる絵 (1923年)。

 この航海では、南方大陸に関する情報は得なれなかったため、2回目の航海に出発します。今度はレゾリューション号とアドヴェンチャー号を率いて再び南方海域の探索を行い、1775年には南緯70度に到達しました。しかし、陸地を発見することはできませんでした。クックは、第3回航海の途中、サンドイッチ諸島(現在のハワイ諸島)で1779年に事故により死亡しました。

3.南極で活躍し、北極で没したエレバス号とテラー号

 エレバス号(370トン)とテラー号(340トン)は、英国のジェームズ・クラーク・ロスが1839年~1843年に行った南磁極発見の探検で使用した船です(図3)。これらの船は、元々、迫撃砲や大砲を積んだ軍艦で、砲の重量と発砲時の反動を抑えるため、普通の船に比べて丈夫に造られており、流氷の間隙を縫って進む極地用船舶としては最適なものでした。ロスは、叔父のジョン・ロスと共に磁北極を発見し、さらに南磁極の発見を目指します。磁極の位置を特定することは、自転軸である地理的な極点に到達することと共に、当時の極地探検家にとって大きな目標だったのです。ロスは、2隻の船で南緯78度まで進み、彼に因んで後に命名された南極最大の棚氷であるロス棚氷や、標高3,794メートルの頂から噴煙を吹き出しているエレバス山を発見しました。しかし、肝心の磁南極は発見できませんでした。なお、James Clark Rossの名は、英国の南極研究所(British Antarctic Survey)が所有する極地調査船(1991年就航、7767トン)の船名にそのまま採用されています。

図3 エレバス号とテラー号をあしらったロスの記念切手

 帰国後、ロスは、今度は北極探検の指揮を頼まれましたが、家庭的な事情で断りました。それに代わって引き受けたのは、ジョン・フランクリンでした。英国は、カナダ北部の多島海を通ってベーリング海に抜ける北西航路の発見に望みをかけていました。遠征隊長の人選には、紆余曲折がありましたが、ジョン・フランクリンが任命されました。59歳と高齢でした。1845年5月19日、士官24名、乗組員110名の合計134名がロスから引き継いだエレバス号とテラー号の蒸気船に分乗しテムズ川河口を出航しました。この遠征のため、378トンのエレバス号と331トンのテラー号には、25馬力(19kW)の蒸気機関が装備され、4ノットで航海することができました。また、船首は、厚い鉄板で補強されました。さらに、3年分の食料、1,000冊以上の本、蒸留式真水製造装置、室内のスチーム暖房など最新鋭の設備を整え、北西航路の開拓は、成功間違いなしと思われていました。しかし、グリーンランドを発った後、129名の行方は不明となりました。フランクリンは2年後に死亡したことが判明しています。二隻の船が氷に閉ざされたため、残った隊員は陸路で進みましたが、装備品の不備、缶詰の腐敗や鉛中毒などで全員が死亡したと考えられています。フランクリンの妻であるレディ・フランクリンからの強い要請で英国は32回にわたって捜索隊を出しましたが、1854年に布告を出して救助を断念しました。しかし、出航後170年余りたった2014年、エレバス号が北極圏の浅い海底で発見されました。2016年にはテラー号も発見されました。

4.ナンセンのフラム号

 1893年から96年にかけて、ノルウェーのフリチョフ・ナンセンが北極海で画期的な探検を行いました。彼は、シベリアで氷に閉じ込められ破壊したアメリカのジャネット号の船体の一部が、グリーンランドで発見されたことに興味を持ち、新たに設計した船を氷に閉じ込める漂流実験を行いました。ジャネット号は、1879年に氷に閉じ込められた後、2年間漂流し、1881年に沈没しました。その漂流物が後にグリーンランドの南西海岸で発見されたのです。この事実から北極海を横切る海流の存在に注目したのは、ノルウェーの気象学者であるモーン教授でした(文献1)。ナンセンは、モーン教授の新聞記事を偶然読んで、漂流実験による北極点到達の準備を始めたのです。流氷に閉じ込められても壊れず、氷の上に浮き上がるような構造の小さな船(図4)を作り、数年かけてグリーンランドとアイスランドの間の海域に到達しようといる斬新な計画でした。

図4 フラム号の構造。船体は丸く、舵とスクリューを引き揚げることができる。

結局、「フラム号」は、北極点には到達できませんでしたが、3年後に無事ノルウェーに帰還することができました。氷の圧力に耐える船腹が丸い「フラム号」は、その後の耐氷船や砕氷船の原型になりました。フラム号は、後にロアール・アムンセンに引き継がれ、南極点初到達(1911年12月14日)を支援する耐氷船として活躍しました。船体は、現在、ノルウェー、オスロのフラム号博物館に展示されています(図5)。

図5 フラム号博物館のフラム号

5.エンジュランス号とオーロラ号の漂流

 ノルウェーのアムンセンに南極点初到達の栄誉を奪われ、スコット隊長ら5人全員が極点からの帰路、遭難死亡するという大惨事に見舞われた英国は、南極大陸横断という大胆な計画を発表したアーネスト・シャックルトンを支援しました。それは、大西洋のウェデル海から南極大陸に上陸し、南極点を通過したのち、太平洋のロス海に抜けようとするものでした(図6)。ウェッデル海からアプローチする本隊を率いたシャックルトンは、すでに3度目の南極遠征でした。エンジュランス号は、もとの名を「ポラリス(北極星)」といい、ノルウェーの捕鯨業者が北極クマの狩猟用に建造したものでした(文献2)。バーカンティン型帆船と呼ばれる3本マストで、石炭を燃料とする350馬力のスチームエンジンは、10.2ノット(時速18.8km)のスピードが出ました。全長40.3m、幅7.6mの船体の竜骨(キール)は、4本の頑丈なオーク材を重ねて作られており、舷側はオークとノルウェー産の樅でできていて、1912年に進水したときは、世界で最も頑丈な船になっていました。これと肩を並べるのは、「フラム号」くらいのものでした。

図6 帝国南極横断探検隊のルート。赤はエンジュランス号、オレンジがホバートから南極へのオーロラ号の航路。

 シャックルトンは、2回目の探検で南極点まで180kmまで達しながら、食料不足と壊血病のため撤退しています。本隊をロス海側からサポートするのが支援隊で、3,000kmの横断に必要な補給物資をルート上に設置するという任務です。しかし、ウェッデル海に入り込んだエンジュランス号は、氷に閉じ込められ、1915年11月21日、南緯69度の地点で沈没しました。その後、シャックルトン以下6名が、たった7mの救命筏で1,500kmの荒海を乗り越え、サウスジョージア島の捕鯨基地にたどり着き、28名全員が帰還することができたのです。いっぽう、ロス海に向かったオーロラ号は、堅牢な捕鯨船として建造されたのですが、すでに船齢40年で、オーストラリアのダグラス・モーソンの南極遠征からもどったばかりで、大規模な修理を必要としていました。1915年1月にマクマード入り江のエバンス岬に到着すると、10名の陸上部隊を南極大陸に送り出しました。しかし、係留中に嵐により沖合に流され、舵が壊れて南極に戻ることができず、312日間漂流して、ニュージーランドにたどり着きました。乗組員を再編成して再び南極に向かいましたが、取り残された10人の陸上部隊のうち、3人は亡くなっていました。
 アーネスト・シャックルトンは、英国に帰ったあと、しばらくして、再度、探検隊を編成して南極に向いましたが、1922年1月、心臓発作の病に倒れ、思い出多いサウスジョージア島で帰らぬ人となりました。

6.白瀬矗の開南丸の航海

 アムンセンとスコットが南極点初到達を争っていた頃、白瀬矗隊長が率いる日本の南極探検隊が1912年1月16日に南極大陸に上陸しました。白瀬らはその後、クジラ湾から棚氷上を南進し、1月28日に南緯80度05分に到達しました。しかし、南極の夏はすでに終わりにさしかかっており、装備、食糧とも十分ではなかったため、周囲一帯を大和雪原と命名し、引き返えさざるを得ませんでした。クジラ湾内では、南極点初到達を果たしたアムンセン一行を収容するフラム号と遭遇しました。
 開南丸は、白瀬がかつて千島探検で一緒に行動した郡司成忠大尉から購入した木造帆船で、建造時の船名を第二報效丸と言いました。南極用に行った改造は、①船体構造の補強と②蒸気機関(18馬力)による汽走能力を付加した2点でした。表1は、当時の南極探検船の要目を比較したものです。開南丸の馬力が他に比べて小さいのは、蒸気機関の馬力の定義を用いたからで、実際は、60~120馬力と推定されます(文献3)。
表1 南極探検船の要目(文献3)

船名 開南丸 Nimrod Aurora Fram Discovery Endurance
船長 30.48 41.46 50.36 39.0 52.54 43.9
船幅 7.85 9.29 9.33 11.0 10.37 7.62
深さ 3.89 5.33 5.76 5.25 4.88 4.80
総トン数 204 458 402 485 350
船速knot 5.75 6 6-10 6 8.8 10.2
馬力 18 60 96 220 570 350
建造年 1910 1866 1876 1892 1901  1911
Nimrod:1907~09年のシャックルトンの南極点到達挑戦の際に使われた。 Discovery:1901年~04年のスコットの遠征で使われた。 その他の船は本文参照。

図7 秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館にある開南丸の実物大レプリカ

7.文献

文献1 フリッチョフ・ナンセン(太田昌秀訳)1998:フラム号北極海横断記-北の果て-,ニュートンプレス 文献2 アルフレッド・ランシング(山本光伸訳)1998:『エンジュランス号漂流』新潮社 文献3 宇都正太郎:開南丸に関する解説 野村直吉船長航海記出版委員会 平成24年:『南極探検船「開南丸」野村直吉船長航海記』成山堂書店に収録

石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール

前国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。

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