シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第15回

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南極観測を支える海上輸送 その2 英雄時代以降の南極探検船

国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二

1.ウェッデル海でのドイツの活動

1.1 フィルヒナー隊の苦闘

 前回は、英国のシャックルトンが率いた「エンジュランス」号がウェッデル海で氷に閉じ込められ沈没した話を書きましたが、それに先立つ1911~1912年(明治44~45年)にも同じウェッデル海で閉じ込められた船がありました。ドイツの探検家フィルフィナーが企画して遠征した「ドイッチュラント」号です。隊長のウィルヘルム・フィルフィナーは、元々はロシアやユーラシア内陸部で測量や地磁気を専門とする陸軍士官の探検家でしたが、当時海岸線も内陸の様子も未知であった南極を探検することを計画しました。ドイツは、1901~1903年にガウス号によるウイルヘルム2世ランドへの探検を実施しましたが、科学的な成果はあったものの、領土獲得願望に熱心なドイツ政府の評判は良くありませんでした。1909年にベルリンで発表した探検計画の目的は、ウェッデル海からロス海を結ぶ、南極大陸の首(ネック)に当たる部分を横断して、ここが海峡で分け隔てられているかどうかを調べることでした(図1)。

図1 ウェッデル海とロス海

 フィルヒナーの計画は、大学関係者からは歓迎されました。しかし、この計画を実施するためには、二隻の船と二つの隊に分かれての行動が必要で、見積もった資金は膨大になり、皇帝からも反対されたため、私的な探検隊として活動せざるを得ませんでした(文献1)。寄付を集めて購入した船は、ノルウェーの「ビヨルン」号で、捕鯨やアザラシ猟で活躍していました。もともとは、英国のシャックルトンが、1909年に予定したロス海探検用に考案したもので1905年に製作されました。しかし、値段が高かったため購入を諦めた船でした。フィルヒナーは、この船を「ドイッチュラント(Deutschland)」と再命名し、シャックルトンの助言を入れて、船体を補強、エンジンやボイラーも極地用に取り替えました(図2)。

図2 「ドイッチュラント」号の黄断面図とブエノス・アイレスに寄港中の同船(文献1)

 プロペラは、ニッケル鋼鉄製で、海中からデッキに引き上げて交換も可能でした。石炭を燃料とするエンジンは、300馬力で、430トンの石炭貯蔵庫を備えていました。船内電力用の補助機関であるボイラーは、燃料を節約するためにクジラやペンギンの油を燃やすことができました。これは、後にウェッデル海でビセットされたときに重宝します。1911年5月、「ドイッチュラント」号は、ブレーメンハーヘンを出港、南下しました。乗組員25人、隊員9人、8匹の蒙古産ポニー、ハスキー犬75匹が乗り込みました。ファイルナーは当初、ノルウェーの船長とアイスパイロットを選任しましたが、周囲の反対に合い、アルコール依存症のVahselが船長に納まりました。フィルヒナーが9月にブレノス・アイレスから乗り込んだ時には、船内は敵対する2派に分かれて険悪な状態でした。船は、サウス・ジョージア島を経由して、南極半島の東に位置するウェッデル海に入り大陸に接近しました(図3)。そして、現在フィルヒナー棚氷と名づけられた大きな棚氷を発見しました。棚氷というのは、大陸内陸から海洋に押し寄せた平坦な氷で、10~数100mの厚さがあるものです。彼はその棚氷上に越冬基地を置くことを希望しましたが、船長の反対にあい、しかたなく、氷山の上に小屋を設置しました。しかし、強風のために氷山は砕け、基地は失われ、棚氷の一部も分離崩壊してしまいました。

図3 「ドイッチュラント」号の航跡(黒)とビセット漂流経路(赤)(文献1)

 さらに1912年3月には、「ドイッチュラント」号は流氷に閉じ込められ、船内での越冬を余儀なくされました。食料は十分ありましたが、主ボイラーが壊れたため、船内は寒く、水滴がしたたり落ちていました。しかし、ミッドウインター明けに行った157kmの橇旅行で一息つくことができました。フィルヒナーと対立状態が続いていたVahsel船長は、健康状態が悪化し、8月初めに船内で亡くなりました。船は北西に流され、11月26日にようやく氷から脱出し、12月にサウス・ジョージア島に戻ることができました。フィルヒナーは、人間関係に疲れ果て、ここからドイツに帰還しました。  かつてフィルヒナーに船体補強について助言したシャックルトンの「エンジュランス」号が、「ドイッチュラント」号の氷海脱出から3年後の1915年11月に同じ海域で氷の圧力に負けて破壊・沈没したのは、何とも皮肉なことです。フィルヒナーの探検から学ぶことは、船長と探検隊長との協調の大切さです。この隊のように、充分な装備品を周到に用意しても、両者の仲たがいが原因で探検隊はまとまりがなくなるということです。船長は何よりも航海行動の安全を優先し、隊長は実りのある探検活動を目指します。そこには、腹を割っては話し合える人間関係が必要とされます。

1.2 70年後に再び棚氷に基地建設したドイツ探検隊

 それから70年後にドイツは、同じ棚氷上に越冬基地を建設しようとします。1980/81のシーズンに砕氷船「Polarsirkel」で南緯77度を目指してウェッデル海を進みましたが、海氷状況が悪く到達できませんでした。代替え地として選んだのが南緯70度のAtka湾の棚氷でした(文献2)。ここが現在のノイマイヤー基地です。この付近は年間150mの速度で海に向かって移動しているので、現在の基地は3番目に建てたものです。  ドイツはフィルヒナー棚氷に執着があるらしく、翌1981/82のシーズンに12人収容の夏基地を建設しました。この場所の年間積雪は50cm、移動速度は1kmにも達します。建物は、雪面から3~4mの高床式の鉄製の架台の上に居住施設を乗せたもので、2~3年ごと柱を継ぎ足し、埋没を防ぐようにした初めてのジャッキアップ式建物でした。しかし、1998年10月に捉えた人工衛星の画像で、基地を乗せた棚氷の一部が氷山となって分離したことが分かりました。ドイツは、新砕氷船である「ポーラーシュテルン」を現場に急行させ、建物を解体し120トンの物資と30トンの燃料を船に回収しました。これは南極保全に考慮した迅速な行動として、南極関係者から称賛されました。  ドイツの海洋観測船「ポーラーシュテルン」(図4)は、ドイツの極地研究機関であるアルフレッド・ウェゲナー研究所(AWI)が運用する極地観測用砕氷船で、1982年に就航しました。満載排水量は、17,300トン、全長117.9m、全幅25m、ディーゼル2万馬力の性能を持ちます。いっぽう、日本の一代目「しらせ」は、同じ年に就役し、「ポーラーシュテルン」よりの一回り大きく、満載排水量18900トン、全長134m、全幅28m、3万馬力である。「ポーラーシュテルン」の特徴は、北極と南極のどちらでも航行し年間の稼働日数が310~320日に達し、様々な観測研究設備を有していることです。しかし、船齢が30年を超えたため新船建造が検討されています。

図4 ドイツの砕氷船「ポーラーシュテルン」

2.1920~30年代は、捕鯨と領土権主張の時代

2.1 C.A.ラーセンと英国の領土権主張

 南極の領土権を主張している国は、フランス、チリ、アルゼンチン、オーストラリア、イギリス、ノルウェー、オーストラリアの7か国です。最も早く宣言したのは、イギリスでした。1905年、フォークランド諸島およびサウス・ジョージア島付近で捕鯨活動を行うノルウェー人に課税したのが始まりです(文献3)。前年の1904年、ノルウェーの捕鯨船長であり探検家のカール・アントン・ラーセン(図5)が、サウス・ジョウジア島にアルゼンチンとの合弁会社を作りました。フォークランド諸島を管轄していた英国の役人がラーセンのの捕鯨基地を不法行為であると訴え、借用条件を付け、捕鯨を制限しました。  ラーセンは、ノルウェーの捕鯨家・探検家で、南極の捕鯨産業を開拓した人として知られています。また、彼に因んで命名された南極半島東側にあるラーセン棚氷は、最近崩壊が著しく、地球温暖化の象徴としてニュースで耳にするようになりました。彼は、サウス・ジョウジア島のGrytvikenに家族で定住し、小さな捕鯨船を購入して捕鯨活動を始めました。

図5 南極捕鯨産業の開拓者、カール・アントン・ラーセン

 クジラから採れる製品は、鯨油で、オープンクッカーで処理した後、オーク材の樽に詰めて運搬しました。また、クジラの髭は、ケラチンでできており、女性のコルセットや団扇の骨として利用されましたが、肉は捨てられ全体の利用率は50%以下でした。20世紀初頭には、鯨油の硬化技術が開発され、せっけんやマーガリンの原料として需要が拡大しました。クジラを洋上で処理できる洋上鯨工船Admiraren号が南極に導入されたのは、1905年でした。一日に100~120樽の鯨油が生産でき合計で960トンの油貯蔵ができました。1912/13年のシーズン、南極には、6か所の地上基地と21隻の鯨工船、62隻の捕鯨船があり10,760頭(ザトウクジラ、シロナガスクジラ、ナガスクジラ)を捕獲し、420,000樽(7万トン)の鯨油を採りました(文献1)。  第一次世界大戦の間(1914~1918年)捕鯨活動は減りましたが、鯨油の需要は増えました。それは、軍事上重要なニトログリセリンの生産に鯨油が使われたからです。戦後、大型の工場船が導入されました。その先鞭をつけたのもラーセンでした。彼は、1905年に製作された客船を改造、その名も「ジェームス・クラーク・ロス」と命名し、130人の船員を乗せて他の捕鯨船を従え南極のロス海に入りました(図6)。この船は、長さ143.37m、幅17.8m、喫水9.54mと大きなものです。南極圏に初めて入った鋼鉄製の船でしたが、耐氷船ではなく、鯨湾は流氷が詰まっていて操業できませんでした。また、クジラをデッキに挙げる装置がなく、強いうねりと荒れた海では、クジラの皮を剥ぐことはできませんでした。このシーズンの捕獲数は221頭、17,500樽でした。ラーセンは翌年も南極に向かいましたが、1924年12月8日に心臓病で船室で死亡しました。

図6 4頭のクジラを曳航してロス海を進むジェームス・クラーク・ロス号(文献1)

 ラーセンはサウス・ギョージア島に住み南極海で捕鯨するために、1910年に英国市民権を得ています。ちなみに、ロス海付近は、ロスが発見後もスコットやシャックルトンが入り込んだことを根拠に、英国が1923年にロス属領(図7)として領土権を主張し、ニュージーランド総督に統治権を付与しました。現在はニュージーランドが権利を主張しています(文献3)。

図7 ニュージーランドが領土権を主張しているロス属領

2.2 ナチス政権下のドイツ南極探検隊(1938~1939)

 鯨油は、石鹸やマーガリンなどの生活必需品や軍事上重要なニトログリセリンの生産に欠かせない資源でした。ドイツはノルウェーから年間20万トンもの鯨油を購入しており、外貨準備金を節約するため、自前の船団を南極に派遣することにしたのです。さらに、他国から干渉されない南極の安全な場所に基地を設置する計画を進め、1938年12月に秘密裏に南極観測隊を派遣しました。この計画を推進したのは、ナチス党政権下のヘルマン・ゲーリンクで、軍事基地も意図していたと言われています。この探検は、短い準備期間にも関わらず、最高の装備とサポート体制で行われました。クイーンモードランド地域に領土権を主張することが目的でした。その方法は、航空写真を撮り、ナチスの鍵十字で装飾したアルミ製のダーツを投入することでした。リーダーは、ナチ党員のアルフレッド・リッシャーでベテランパイロットです。アイスパイロットは、20年間捕鯨船に乗っていたオットー・カールでした。28人の士官と科学者、54人の船員から構成され、船員の給料は50%増と優遇されました。  1938年10月にバンブルクに船が到着し、たったの6週間でキャビン、実験室、通信機などの整備を実施しました。船名は「シュバーベンラント」。8,488総トン、長さ142.7m、幅18.4m、喫水11.8mで、蒸気動力のカタパルト装置があり、飛行艇を船上から発射できます。2機のディーゼルエンジンの出力は3,600馬力、4機の補助ディーゼルエンジンで船内の電力を賄い、大きな冷凍・冷蔵庫も設備しています。航続距離は、43,360kmで、途中で給油の必要がありません。氷対策として、厚さ20mm、幅120cmの鋼板を喫水線付近に貼り付けてありました。プロペラは、ブロンズ製から鋳鋼製に取り換え、強度を増しています。  2機の4人乗りドルニエ・スーパーヴァル飛行艇の重量は10トン、ペイロード5トン、690馬力の12気筒BMW製エンジンを搭載、最高速度220km、航続距離2,500~2,800kmという仕様です。ツァイスの空撮用カメラで3,000mの高度から25km四方の詳細な地形を読み取ることができました。  1938年12月17日、ハングルクを秘密裏に出航し7,400kmを34日かけて氷縁に到着しました。1939年1月19日にプリンセス・マーサー・コースト(69°S、4°E)氷縁に到達、海岸沿いの海氷上にドイツ国旗を立て、一帯を「ノイシュヴァーベンラント」と名付けました(図8)。

図8 往復航路(実線:往路、破線:復路)(文献4)

 飛行艇(図9)を用いて15日間、14回のフライトで、11,000枚の写真撮影を行い、250,000km2の地域をカバーすることができました。さらに、先端に鍵十字が付いた長さ1.2mのアルミニウム製の矢を多数投入し、領土獲得の意思を示しました(図10)。そして1939年4月にハンブルクに戻りました。

図9 船上のカタパルトと飛行艇 (文献1)
図10 ナチス党の国旗を雪面に立てる隊員(文献4)

 ノルウェー政府は、自国の捕鯨船団から「シュヴァーベンラント」の報告を受け、ドイツの上陸に先駆け、1939年、1月14日に東経45度~西経20度の範囲をドローニング・モードランド(図11)として領有権を主張しました。ノルウェーの領土権は他国と違い、南極点まで達しない沿岸部から南緯81度付近までに限られています。これは捕鯨海域を対象にしていたことと、ドイツの侵入を考慮したことによると思われます。(文献5)。

図11 ノルウェーが領土権を主張する地域

文献

1. Rorke Bryan (2011) Ordeal by Ice -ships of the Antarctic, Seaforth publishing. 2.Die Filchner-Schelfeis –Expedition 1980/1981, Berichte zusammengestellt von Heinz Kohnen, Expeditiosleiter (The Filchner Ice-Shelf-Expedition Reports compiled by Heinz Kohnen, expedition leader), Berichte zur Polarforschung Nr. 1/April 1982. 3. 大島大策(2000)南極条約体制と国際法-領土、資源、環境をめぐる利権の調整,慶應義塾大学出版会 4.Cornelia Lüdecke & Colin Summerhayes (2012), The Third Reich in Antarctica: the German Antarctic expedition 1938-39, Erskine Press, Bluntisham Books. 5. Emilio J. SAHURIE (1991):The international law of Antarctica, New Haven Press, Martinus Nijhoff Publishers.

石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール

前国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。
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