シリーズ「極地からのメッセージ」 第13回

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極北の地、ティクシにて

神保美渚(北海道大学大学院獣医学院博士課程)

ロシア連邦サハ共和国の首都ヤクーツクから小さなジェット機で飛び立ち、だだっ広い空港に降り立った。すぐに別室に通され、ミリタリー姿の係員にあれやこれやと質問される。「なにしに来たの?」「いつまでいるの?」「変なものもってない?」「ここに冬に来た日本人は初めてだよ!」



写真1.調査中の一枚。雪の反射がまぶしい。

2017年3月、私はサハ共和国の北端に位置する小さな町、ティクシを訪れた。ティクシが面している北極海の一部、ラプテフ海に生息しているホッキョクグマの生態調査を実施するためだ。

空港を出ると、調査に同行するレンジャーが迎えにきてくれていた。ひときわ年季の入ったワズに乗り込み、15分ほど走ると町につく。もう3月下旬だというのに、道も建物も一面真っ白に雪に覆われていた。あちこちにスノーモービルがとめられている。たしかにこれだけ雪に覆われていれば、自動車よりもスノーモービルのほうが活躍しそうだ。ティクシの町中にある建物は、どれもコンクリート製の真四角で、高床式になっている。お店もアパートも同じような外見をしていて、一見しただけでは何の建物なのかわからない。黄色に塗装された建物の前に車をとめ、外階段をあがって鉄の扉をあけると、小さな食料品店だった。ここで数日分の食料を買い込む。パンとジャム、缶詰、ピクルスなど簡単に食べられるものをごっそりと。明朝からさっそく野外調査に出かけるのだ。

 



写真2.ティクシの町中では、雪に埋もれた公園で子供達が遊んでいた。
寒さにも負けず、たくましい

翌朝、調査隊が集まり、改めて自己紹介した。ロシアでは名前ごとに愛称が決まっている。通常、上下関係がある場合は愛称は使わないが、野外調査中は一蓮托生。お互い、愛称で呼び合うこととなった。調査隊は私のほかに、ヤクーツクから一緒にきた共同研究者のゴーシャ、現地でレンジャーとして働くケーシャ、そしてハンターのグリーシャの4人だ。挨拶もそこそこに、昨日買い込んだ食料とガソリン、寝袋を荷台に積み込む。その合間、ケーシャとゴーシャが交互に私のところに来て、「そんな手袋じゃダメだ」 「もっと帽子を深くかぶれ」 「もうひとつ上着をきろ」 と装備を増やしていき、あれよあれよという間に私は丸々と膨れ上がった。歩くとぼてぼてと音がしそうな様相の私をみて、グリーシャが「スモウガール!」と笑う。あっという間に準備は整い、2台のスノーモービルに分かれて乗り込んだ。私はグリーシャの後ろ。防寒具で膨れ上がって身動きしづらいが、必死にしがみつく。いよいよ、北極の旅が始まる。



写真3.中央で仁王立ちしているのが私。肌を一切ださない完全防備。

集合場所はすでに町のはずれだったらしく、走り出して3分もたたないうちに周囲は見渡す限りの雪原となった。天気は快晴、風もほとんどない。素晴らしい調査日和だ。基本的に陸地を走るが、ティクシの沿岸部は小島が集まったような地形をしており、島と島のあいだは凍った海のうえを走ることになる。一面雪に覆われているため、見た目には陸なのか海のうえなのかはわからない。しかし、走りながら海にさしかかると、音がかわる。エンジン音に加えて、スノーモービルのタイヤが氷を叩くコォーーという音が水のなかに響くのだ。走りながらちらと見下ろすと、雪の隙間から氷を透かしてコバルトブルーの海がみえた。はじめて見る北極の景色に私の心は踊り出し、おとなしく座っているのが大変だった。

しばらく走って、少し丘のようになっているところで休憩をとることにした。スノーモービルの後部座席に座っているだけなのだが、終始ガタガタと揺れているので結構疲れる。グリーシャがお手製のピロシキと、甘くてあたたかい紅茶をわけてくれた。よく晴れた青空の下で冷たく澄んだ空気に包まれて、ちょっとしたピクニック気分だ。手袋を外すと少し寒かったが、おなかはぽかぽかと温まった。さぁ、午後もがんばろう。



写真4.あちらこちらにホッキョクギツネの足跡があった。

時々休憩をはさんで方向を確かめながら、北に向かった。走っていると、ときどき小屋が建っているエリアを通りがかった。人が住んでいる様子はなさそうなので何の小屋かときくと、漁師が夏のあいだだけ使っている小屋だと教えてくれた。

15時ごろ、一軒の小屋の前でスノーモービルをとめた。まだ日は明るいが、初日なので早めに休息をとることにする。二重の扉をあけて小屋のなかに入ると、壁際には枠だけの二段ベットがずらりと並び、中央に暖炉があった。早速、そばの木材をいれて火をつける。濡れた手袋や帽子を暖炉のうえに干しているうち、徐々に室内もあたたまって、寒さでこわばっていた体がほどけていった。

グリーシャがどこからか凍った魚をもってきて、ナイフで身を薄く削ぎ始めた。サハの伝統的な料理で、ストロガニーナという。凍ったままの切り身に塩をかけて食べると、口のなかで徐々に溶けて脂肪の甘みがたまらなくおいしい。凍った魚を削るには、それなりの練習がいるらしい。サハではパーティがあると、こどもたちに順々にストロガニーナを作らせる。そうして上手に削れたこどもは大人たちに褒めてもらえるそうだ。
「こどもたちがたくさん削ってくれれば、大人は楽しておいしいものを食べられるだろ?」
ゴーシャはそう言って笑いながら、ウォッカをぐいと飲んだ。
パスタを茹でて簡単な夕食をとり、ゆっくりと初日の疲れを癒す。ゴーシャが床に転がっていたアコースティックギターをぽろぽろと弾き始めると、ケーシャが若い頃の思い出を静かに語りだした。サハ語だからほとんど内容はわからないが、ときどきゴーシャが気まぐれに通訳してくれた。初めて猟に出た話、今の仕事に就いた理由、父親の武勇伝…ケーシャの低い声と、少し調子外れのギターの音。窓の外は吸い込まれそうな暗闇だが、室内はランタンの明かりで優しく満たされていた。

私はかつて、極北で暮らす人たちに対して、どうしてこんなに過酷な環境に住み続けるのだろう、と疑問に思っていた。しかし、そんな考えはこの一晩ですっかり変わってしまった。ここには、ここでしか感じられない自然があって、人々は自然とうまく付き合い、たくましく、楽しみながら暮らしているのだ。なんて素敵な人たちなんだろう…そんなことを考えながら寝袋に入ると、一日の疲れがどっと押し寄せてあっという間に眠ってしまった。



写真5.ストロガニーナを作るため、凍った魚を削っているグリーシャ。

そうして、ひたすら北に向かいながら3日が過ぎた。食料とガソリンの残りを考えると、そろそろ町に戻らなくてはならない。しかし、これまでの調査成果は芳しくなく、私は焦っていた。そんな私の心に呼応するように、これまで晴れ続きだった空ががらりと色を変えた。はじめはちらついていた程度の雪が徐々に多くなり、風も吹き始めた。このまま、なんの成果もあげられなかったらどうしよう…疲れと寒さもあいまって、どんよりとした空気が調査隊を包む。すると、前を走っていたケーシャのスノーモービルが突然停止した。
「あったよ!」
モービルを降りて走り寄ると、探し求めていたものがぽつりと落ちているのが見えた。
ホッキョクグマの糞だ。「やったー!」と叫んで踊りださんばかりの私をみて、グリーシャが苦笑いした。糞でこんなに喜ぶ人間は珍しいのだろう。それでも、私のにやにやはおさまらなかった。これを求めて、遥か遠い北の地を訪ねて来たのだから。たて続けに3つの糞を採取し、ほくほく笑顔で町に戻った。



写真6.ホッキョクグマの糞を採取中。ケーシャ(写真右)が足跡が残っているのに気づいた。

一回目の調査が終わった後、もう一度調査に出て、あっという間にヤクーツクに帰る日がきた。ケーシャのワズで空港まで送ってもらう。10日前、この道を通ってティクシに着いた日が、遠い昔のようだ。空港で搭乗手続きをしていると、グリーシャも見送りに来てくれた。一緒に過ごしたのはほんの数日だが、とても濃い時間だった。遠い遠い北の地に大好きな叔父さんができたような気分だ。

「君はとても強い女の子だよ。またおいで。」

そういってお別れのハグをした後、グリーシャはあっさりと帰ってしまった。最後まで見送ってくれないんだ…と一瞬さみしく思ったが、いかにもグリーシャらしい。サハの人たちは、あまり別れを派手にしないようだ。またいつでも会える、と、そう考えているからなのかはわからないが、涙もろい私にとっては有難かった。
すぐに搭乗の時間になり、ケーシャに手を振ってジェット機に乗り込んだ。
初めて訪れた北極は美しく、ときに厳しく、すべてが刺激的だった。自らの身で感じた北極の自然や、ゴーシャとケーシャ、グリーシャが教えてくれた人々の暮らし、物語は私の宝物だ。今回の旅を通して、私はひと回りもふた回りも大きくなれたような気がした。野生のホッキョクグマの姿をみることができなかったのは残念だが、旅先には多少の心残りがあったほうがいい。
必ず、またここに来よう。そう心に誓って、帰路についた。



写真7.機内からの景色。この美しい景色とも、暫しの別れ。

 

神保美渚(じんぼ みな)プロフィール

北海道大学大学院獣医学院博士課程所属。幼少期よりフィールドを駆け巡る野生動物研究者に強い憧れを抱き、現在に至る。“強くて大きい動物”への畏怖の念から大型肉食動物の生態に興味をもち、これまでにアザラシやヒグマを対象とした研究を実施している。2016年にはサハ共和国の研究機関との共同研究課題として、念願であったホッキョクグマの生態研究を開始した。

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