南極観測と朝日新聞その15 8次夏隊と9次越冬隊のこと
柴田 鉄治(元朝日新聞社会部記者)
私が同行した第7次観測隊の隊長だった村山雅美氏は、『ミスター南極観測』とも呼ばれていた人だ。日本でも有数な山男で、日本山岳会のマナスル登山隊に参加して登頂し、帰国してすぐ第1次南極観測隊に合流した人だ。
本番の第2次越冬隊長に決まっていたのだが、不運の2次隊は観測船「宗谷」が氷にとざれて昭和基地に近づけず、第3次越冬隊長として基地を再開して越冬、帰国後すぐ、第5次越冬隊長としてまた越冬と、「宗谷」時代の6年間を毎年、南極にいたわけだから、『ミスター南極観測』の呼ばれるのも無理はない。
そして観測船「ふじ」を新造して4年ぶりに再開された第7次観測隊の隊長として、昭和基地を再開し、600トンの物資をすべて空輸して7次隊は大成功だったのに、船にたった一つ残された大型雪上車が陸揚げるまで、笑顔を見せなかったことは前に記した。
つまり、村山氏の南極観測への情熱は、第9次越冬隊によって行われる予定の昭和基地から南極点までの「極点旅行」にあったのだ。
翌年の第8次観測隊も大型雪上車を陸揚げして、8次越冬隊の鳥居鉄也隊長が、極点旅行の準備として、途中までの物資のデポづくりをやった。村山氏と鳥居氏は東大の「山とスキーの会」のメンバーで、南極観測の設営部門を取り仕切ってきた人だ。
この第8次観測隊の同行記者に、朝日新聞社は高木八太郎記者を同行させた。高木記者も東大「山とスキーの会」メンバーで、村山、鳥居氏の後輩にあたる。高木記者も山男として南極観測隊への同行を希望して記者だが、8次の夏隊だけでなく、9次の越冬隊にも同行することになった。その経緯はこういうことだった。
8次夏隊と9次越冬隊に高木八太郎記者が派遣される
朝日新聞社は、9次隊による極点旅行に記者を同行させたいと考え、その役を私にやれと命じられた。私は秘かに村山氏と会い、「ぜひ朝日の記者を連れて行ってほしい」と頼んだ。すると村山氏はこう言ったのだ。「高木八太郎君を出してくれるなら」というのである。
私は、その言葉を社会部長に伝え、社会部長にも村山氏と会ってもらって、その約束を再確認した。高木記者が8次夏隊、9次越冬隊と連続して同行するという異例の事態になった経緯とは、そういうことだったのである。
同時に、旅行隊が南極点に到着するのを出迎えるため、私も米国隊に頼んで南極点に行き、昭和基地から同行する高木記者と合流して記事を送るという計画が進められた。
こうして迎えた1968年9月、高木記者から送られてきた情報に仰天した。まもなく出発する極点旅行隊のメンバー12人が発表されたが、そこに高木記者の名前がなかったからだ。
高木記者によると、村山さんはその理由をこう説明したという。「途中の科学観測が大事で、その担当を決めていったら12人が埋まってしまった。旅行隊を12人より増やすわけにはいかない。高木記者には申し訳ないが、我慢してくれ」と。
私は、あれほどしっかり約束したのに、と不満だったが、隊長の判断に従うほかないな、とそのときは抗議もしなかった。
私が本当に怒ったのは、旅行隊が出発したあとの出来事を知ってからだ。出来事とは、旅行隊の一人、遠藤隊員が雪氷観測の作業中に大けがをして、小林ドクターが付き添って、1台の雪上車で治療のため昭和基地に戻ってきたことだ。
遠藤隊員が負傷、基地に戻ったのに交代要員は出さず
この情報が送られてきたとき、私は遠藤隊員には申し訳ないが、代わりに高木記者が旅行隊に入れるだろうと期待した。ところが、村山隊長からの指示は、遠藤隊員を基地に残し、小林ドクターらはすぐ引き返せ、というものだった。旅行隊は11人でやるというのである。
それを知って私は、「村山隊長は最初から高木記者を連れて行く気はなかったのだ」と本当に怒りが湧いてきた。村山氏はなぜ約束を破ったのか。村山氏は何の説明もしなかったが、その理由がおぼろげながら分かったのは、ずっと後のことである。(以下次号)
柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。 |