シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第18回

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南極での一酸化炭素中毒の恐ろしさ

石沢 賢二(国立極地研究所極地工学研究グループ)

1. 第1次隊が持ち込んだカナリア

 昭和32年に始まった昭和基地の越冬隊には、11人の隊員、19頭のカラフト犬の他に、さらに2種類の生物がいました。ひとつは「たけし」と名付けられた1匹の猫です。この猫は、観測船「宗谷」が出港する前々日の昭和31年11月6日に、「南極事務室」に3~4人のご婦人方が現れ、「一匹の子猫をぜひ南極へ、皆さまのお伴に」と寄贈されたものでした(文献1)。残る生き物は、今回話題にする2羽のカナリアです。このカナリアは、一酸化炭素(CO)などの有毒ガスを人間よりもいち早く感知するために、おそらく西堀越冬隊長が持ち込んだものと思われます(図1)。

図1 昭和基地のカナリア(1957年6月16日撮影)

 西堀さんは、1939~40年にかけてアメリカ合衆国に留学していました。このとき、休日を利用して南極経験者に会い、いろんな体験談を聞いて、いつ実現するかも知れない南極探検の情報収集をしていたのです。当時もっとも有名な米国の南極探検家は、リチャード・バード少将でしたが、ちょうど南極遠征中で留守でした。バード少将は、かつて小さな観測所で越冬中にCO中毒になり瀕死の状態で救出された人です。また、1911~12年にかけて、南極点初到達を英国のスコットと争い勝利したノールウェーのアムンセンもカナリア1羽を持っていきました。「フラム号がノルウェーを出発するとき、船上の生き物は、人間19人、犬97頭、豚4頭、伝書鳩6羽、カナリア1羽だった。」とフラム号の船長は語っています(文献2)。こんな情報を元に西堀隊長はカナリアを連れて行ったのかも知れません。

 ところで、昭和基地で越冬中のカナリアについての記録はあまり残っていません。西堀越冬隊長の『南極越冬記』(文献3)には、「夜、カナリアのために栄養食を作る」と、一行だけ出てきます。また、調理担当だった砂田正則さんの越冬日記(文献4)には、隊長の持参したカナリアの餌が行方不明になり(3月31日)、藤井隊員が通路を整備中に見つけ、隊長が大いに喜んだ(4月5日)と記載されています。また2羽のカナリアはツガイだったらしく、越冬中に卵を産み、その卵12個を猫の「たけし」が食べてしまい(6月12日)、西堀隊長に折檻(”気を付け”の姿勢を1時間)を受けた(6月13日)ことも書いてあります。幸いにも越冬中、CO中毒事故はなかったようです。15頭の犬は基地に置き去りになりましたが、11人の越冬隊員と「たけし」、2羽のカナリアは、「宗谷」に乗って帰国の途に就きました。帰国したカナリアは、西堀越冬隊長が引き取ったようですが、その後どうなったのかは、よくわかっておりません。

2.毒ガス検知器としてのカナリアと炭鉱事故

 かつて炭鉱夫たちは、カナリアの入った装置を炭鉱に持ち込み、毒ガス警報機として使用していました。図2は、ロンドンのサイエンス博物館にあるもので、箱の上にある酸素ボンベは、ぐったりしたカナリアを蘇生させるための物です。地下の鉱床では火災や爆発が起きた時、COのような致死性ガスが発生することがあります。無色無臭のガスは、人間にも鳥にも致命的ですが、鳥類のほうがその影響を受けやすく、早期に症状が現れます。このアイデアを採用したのは、スコットランドの生理学者、ジョン・ホールデンでした。彼は自ら有毒ガスを吸い込んで、自分の体の異変を記録しました。また、多くの炭鉱事故を調査し、COが身体に酸素を運ぶ赤血球と結合し、酸素供給を遮断する致死成分であることを発見しました。

図2 カナリア毒ガス検知器(文献5)

 今では、赤血球中のヘモグロビンのCOに対する親和性が酸素の200~250倍も大きく、血液から酸素を排除することがわかっています。カナリアは、特殊な呼吸器を持っているため、空気中の毒素をいち早く知らせるのに最適でした(文献5)。坑道で小鳥のさえずりが聞こえなくなったら危険なのでその場を離れるようにしていました。

 日本の炭鉱でも多くの事故がおきています。オーストラリアや中国などの大規模炭鉱は「露天掘り」ですが、日本の炭鉱のほとんどは地下深くに堀り進む「坑内堀」でした。昭和年代で起きた最大のものは、昭和38年(1963年)の福岡県大牟田市の三井三池炭鉱三川坑で発生した粉塵爆発事故です。坑内で石炭を満載したトロッコの連結が外れて火花を出しながら暴走・脱線し、大量の炭塵が坑内に蔓延、この炭塵に引火爆発しました。死者458名のうち、爆死は20人で、それ以外はCO中毒死でした。救出された940名のうち、839名のCO中毒患者を出しています(文献6,7)。

3.南極でのCO中毒事故

 1911年に南極点に初到達したアムンセンもCO中毒のため、ギリギリのところで脱出したことを報告しています(文献8)。もっともよく知られているのは、先にも述べたアメリカのリチャード・バード少将が第2回目の南極遠征時に瀕死の状態になった事故です。その詳細を見てみましょう(文献9、10)。 

3.1 リチャード・バードのCO中毒とその救出

 バードが1933~35年にわたって行った探検では、自らが組織した米国南極科学調査団長として、100名の隊員、4機の飛行機、4台のトラクター、犬橇隊1チームの陣容でロス棚氷のリトル・アメリカ基地に上陸しました。この基地は、1928年に南極点への初飛行を成功させた時のベースキャンプでした。今回の探検の目玉の一つは、南極内陸部の気象観測を通年にわたり行うことでした。これまでは、大陸縁辺部だけの気象データがあるのみで、内陸のデータは犬橇隊などが計測したスポット的なものだけでした。内陸の気象状況の解明は、気象学的にも重要とみなされ、できるだけ内陸に越冬観測所を設けることが計画されました。しかし、船による物資輸送が遅れたことなどから、リトル・アメリカ基地から197km離れた所に、プレハブ小屋を設置し越冬観測所としました(図3)。

図3 バードの小屋とガソリンエンジン、ドラム缶等を格納した雪洞(文献9) 

 彼は、1934年3月22日、飛行機でこの地点に到着、7人の隊員をトラクターで帰し、8月10日に救出されるまでの約4か月半の間、一人だけでここに滞在したのです。当初の計画では、気象係2人と無線係1人が越冬することになっていましたが、トラクターのトラブルなどで充分な物資輸送ができなかったため、一人の滞在となりました。プレハブ小屋の大きさは、およそ4m×5mの十畳ほどで、屋根には百葉箱があり、屋外には風速計と無線アンテナがありました。3月31日のこと、ガソリンエンジン発電機を停めるため雪洞に入ったところ、停留していた排気ガスのために昏倒してしまいました。排気孔が雪で塞がっていたのです(図3)。こんなことがあっても、バードは無線で救援隊を呼びませんでした。冬期の困難な旅行で隊員に迷惑をかけたくなかったのです。石油ストーブの調子も悪く、体に悪い排気ガスを避けるため、ストーブは1日10時間しか炊きませんでした(図4)。室温は最低-62℃まで下がりました。

図4 石油ストーブで暖をとるバード(Hulton-Deutsch Collection/CRBIS)

 7月20日、無線連絡の様子からバードの異変に気づいたベースキャンプでは、雪上車による救援隊を組織し出発しました。しかし、暗夜期のため進めず失敗、第2回目も機械の故障で引き返しました。第3回目でようやくポールター副隊長ら3人が8月10日に気象観測所に到着、プレハブ小屋の扉を開けることができました。バードの頬はこけ、目は落ちくぼんで憔悴しきっていました。トラクターに乗って移動できない程の重症のため、2か月間静養した後、飛行機でリトル・アメリカ基地に戻ることができました。

3.2 イギリス連邦南極横断探検隊とCO中毒に関する調査

 輸送手段が犬橇から雪上車やトラクターなどに急速に変わり、排気ガスによるCO中毒のリスクが高まりました。このことは、イギリス連邦南極横断探検隊の経験から明らかになりました。この隊では、犬橇も使いましたが、雪上車やトラクターが輸送の中心でした。それに従事した隊員のCO中毒が発生しました。その症状と現地での医学的測定からCO中毒に関する科学的知見が得られました(文献11)。

南極横断探検隊の概要

 ウェッデル海の棚氷上に設置したシャックルトン基地を出発し、サウス・アイス(SI)中継点を経由し南極点に至り、ロス海のスコット基地に至るルートを選定しました。シャックルトン基地から南極点までは、フックス隊長の英国隊がルートを開拓しました。副隊長のヒラリーが指揮したニュージーランド隊は、ロス海に建設したスコット基地からスケルトン氷河を登り、南極点までのルートと補給物資のデポ地を作りました。いずれも、雪上車やトラクターを本格的に使って初めて南極大陸を横断しました(図5)。

図5 イギリス連邦南極横断探検隊のルート

 英国は、スコットが南極点初到達でアムンセンに先を越され、帰路に全員死亡し、1914~17年のシャックルトンの南極横断計画では、エンジュランス号がウェッデル海で破損・沈没、なんとか全員無事で帰還しましたが、失敗に終わりました。何としても南極での威信を取り戻したい英国は、地質学者であるヴィヴィアン・フックスの大陸横断計画を支援することになったのです。計画は1953年から始まりました。イギリス本国の10万ポンドの他、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ連邦が助成金を出し、1955年11月、セロン号がロンドンを出港しました。探検隊16人、2年分の食糧、5台の雪上車、2機の飛行機(オースター機)、24頭の犬を搭載していました。モンテビデオで副隊長となるヒラリーはじめニュージーランド人4人を乗せ、隊員はフックス以下30人になりました。翌年、フィルヒナー棚氷上に350トンの物資を降ろしシャックルトン基地を作りました。730mの滑走路も整備し8名が前進冬営隊として残り、フックスやヒラリーは本国に戻り、横断計画の準備に没頭しました。第2次隊はマガ・ダン号で南極に入り、1957年1月にシャックルトン基地に荷揚げをし、航空機を使ってサウス・アイス(SI)という中継拠点を設置しました。ウェッデル海から南極内陸に入ったのは、フックスが初めてでした(文献10)。

ヒラリー隊の行動

 ヒラリーは、シェルパのテンジンと共に1953年、世界最高峰エヴェレストの初登頂者として有名になったニュージーランドの英雄でした。彼の隊の任務は、スコット基地から南極点に至るコースを予察し、3か所にデポ地を作ることでした。ウィーゼル車1台、ファーガソン社の農業用トラクター3台と橇の陣容でスケルトン氷河を登り、南極高原に第1デポを作りました。それ以降、犬橇隊が先導し、スコット基地から400マイルの「デポ400」、700マイルの「デポ700」を作りました。計画ではここでフックス隊を迎えてスコット基地に帰ることになっていましたが、フックス隊はこの時点でまだSIを出発していませんでした。ヒラリーは、計画にはありませんでしたが、南極点まで足を延ばすことにしました。

フックス隊の行動

 SI拠点はシャックルトン基地から430km離れていましたが、途中クレバスが多く、ルートの距離は640kmにもなりました。SI拠点を出発した時の態勢は、スノーキャット雪上車4台、ウィーゼル車3台、ムスケダ・トラクター1台の合計8台のトラクターでした(図6)。犬橇が先導しました。途中、雪上車が不調で3台を放棄、南極点には1958年1月19日に到着しました。シャックルトン基地から1,450kmの航程でした。

図6 フックス隊のキャンプ(文献12)

CO中毒の兆候

 ヒラリー隊のトラクターの1台は、無線装置を積んだカブースを牽引していました(図7)。内部の暖房は、トラクターの排気管に接続したラジエーターにより行っていました。トラクターの運転者は順番にカブースに入り休息し、暖を取りました。また停止中はカブースに集合し、ヒラリーと通信士の2人はその中で、他はテントで寝ました。

 調理用のプリマスストーブは、テントでもカブースでも1日、4~5時間使用しました。スケルトン氷河を上る途中、CO中毒の症状が現れ始め、高度が増すにつれて悪化しました。カブースの中で過ごしたヒラリーと通信士に最もひどい症状がでました。食欲の減退、頭痛、短い呼吸、締め付けられるような胸の痛みなどです。通信士はめまいを訴え、ヒラリーは、カブースを離れるとき卒倒してへたり込んだこともありました。原因は排気ヒーター配管からのガス漏れとプリマスストーブでした。ガス漏れを修理し、ストーブの上部に煙突を装備することで症状は改善されました。

 フックス隊にも南極点通過後、同じような症状が現れました。低温時に車両の扉を閉め切って走行するようになったためでした。

図7 ヒラリー隊のトラクターと居住カブース(Cliff Dickey, U.S. Navy and NSF)

隊員の採血による研究結果

 雪上車で行動した隊員の静脈血のサンプリングを南極点とスコット基地において行い、カルボニルヘモグロビン(COHb)濃度を測定しました。また、4か月間行動した橇チームと探検隊員でないスコット基地滞在者(非喫煙者)についても行いました。南極点での採血は、隊が基地到着後7時間以内、スコット基地では到着後1時間以内に行いました。採血時にはCO中毒の兆候を示した者はいませんでしたが、横断隊とスコット基地滞在者を比較すると、有意な差がでました。横断隊員の値が高くなっていました。また、犬橇チームは全員低い値でした。このことは、暖房付きのキャビンで寝た人はCOを吸っており、テント泊の人は吸わなかったことを意味しました。

 さらに、ピラミッドテント内での調理用コンロ(プリムスストーブ)から発生するCO濃度の測定を行いました。2つの条件で測定しました。

 a)暖房だけの目的でコンロを燃焼した時
 b)コンロの上に雪が入った容器を載せ、造水のための融雪を繰り返し行った時

テントの入り口は閉め、通気口(ベンチレータ)だけ通常通り開けました。その結果、人間に危険なレベルには達しなかったものの、融雪時のCO濃度は、暖房だけにコンロを使った時に比べ、2倍以上の値でした(図8)。これは融雪時にはコンロの炎が冷たい容器に直接接触するため、炎の温度が下がり、完全燃焼を妨げるためと考えられ、コンロと容器の間にアスベストなどの断熱材を挟むと改善されると指摘しています(文献11)。

図8 造水時と暖房時のテント内のCO濃度と血中COHb濃度(文献11)

3.3 第3隊機械隊員が発電棟で倒れる

 日本の第3次隊が越冬していた1959年10月7日、昭和基地は春旅行の準備中で大忙しでした。このとき、発電棟で造水装置に雪入れをしていた機械隊員が造水槽に頭を突っ込んで倒れているのを、たままた発電棟に入ってきた隊員が発見、すぐにドクターを呼んで応急処置を行い一命をとりとめました。原因は、発電機の排気管に穴が開いていたか、風向きの関係で、ガスが逆流したのだろうと推測されました。当の機械隊員は、何も覚えておらず、気が付いたときには食堂で寝かされていたそうです。(文献13)。

3.4 みずほ観測拠点でのガソリン発電機と石油ストーブでの事故

第11次隊は、昭和基地から約300km離れた大陸氷床上に初めて内陸基地を作り、「みずほ観測拠点」と命名しました。その後、ここを拠点に雪氷部門などの内陸活動が活発になりました。1974年1月、15次隊員4名は、居住棟前室に置いてあった1kVAガソリンエンジンを運転し棟内で仮眠していました。そのうちの1名が小用のため屋外に出て、その後、室内に戻ってみると、屋内外に出入りするための梯子の下に一人が倒れ、もう一人は棟内で嘔吐していました(図9)。残る一人は寝ていました。直ちに脱出口を開き、外気を取り入れました。梯子の下にうずくまっていた人は、外に脱出しようとしましたが、運動神経が麻痺し、登れなかったことが後で分かかりました(文献14)。また、この拠点では別の事故も起きました。真夜中、「ボン」とう音で跳び起きました。灯油ストーブの煙突が雪で詰まり、COガスを発生、滞在していた3人とも暗夜の外に飛び出しました。オーロラが舞い-40℃にも冷え込んだ屋外でガチガチに震えながら、ガスが収まるのを待ったそうです(文献15)。この頃、11次、12次隊で建てた建物はほとんど雪に埋まりかけ、外部とは梯子で出入りしていました(図9,10)。

図9 みずほ観測拠点の断面図(文献16)

図10 屋根まで埋まりかけた「みずほ観測拠点」の居住棟 (文献16)

3.5 小型雪上車の排気ガスによる中毒

第16次隊(1974~76年)の観測隊医療部門の報告(文献17)には、CO中毒が合計16件も発生したことが記載されています。そのすべてがKC20型小型雪上車(図11)を運転しているときに起きています。いずれも早期発見のために大事には至りませんでしたが、1例は意識混濁状態で医務室に運ばれ酸素吸入で回復しました。この雪上車の排気管は、キャビンの下を通っており、古い車両は継ぎ目から排気が漏れ、追い風や停車中に室内のCO濃度が高まったと考えられます。

図11 KC20型雪上車

4. おわりに

現在、昭和基地内から内陸に旅行するときは、大型雪上車のキャビン中で食事を取り、キャビンに備え付けのベッドで宿泊しています。また、雪を入れた大きな鍋をストーブの上に載せ造水しています(図12)。さらに、電子レンジを使うときは、雪上車の電源では足りないので、キャビン後部に搭載してある小型発電機を運転します。いずれもCOガスの発生は避けられません。今では安価なCOガス検知器が各種市販されているので、キャビン内に設置し警報を出すと同時に、雪上車に備え付けの通気口(ベンチレーター)を忘れずに開けることなどの配慮が必要となっています。また、過去の事故例から学ぶことも欠かせません。

図12 大型雪上車キャビンの台所

5.文献:

(1)菊池徹(1983)『犬たちの南極』中央公論社文庫版,p.153

(2)スチーブン・R・バウン著・小林政子訳(2017)『最後のバイキング-ローアール・アムンセンの生涯』国書刊行会,p.138

(3)西堀栄三郎(1970)『南極越冬記』岩波新書, p.92

(4)砂田正則(1958)『南極の食卓 -越冬隊員の胃袋日記』淡交新社

(5)http://karapaia.com/archives/52260076.html

(6)東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/265057

(7)三井三池三川炭鉱炭じん爆発,Wikipedia

(8)Simon Leigh-Smith(2004),Carbon monoxide poisoning in tents-A review, Wilderness and Environmental Medicine, 15, pp.157-163 

(9)P.E.バード著・大江専一訳(1939)『孤独-氷の家の記録』大東出版社

(10)加納一郎(1986)『加納一郎著作集Ⅰ極地の探検』教育社

(11)Pugh L.(1959) Carbon monoxide hazard in Antarctica. British Medical Journal 34(5116), pp.192-196

(12)Sir Vivian Fucks and Sir Edmund Hillary(1958) ”The crossing of Antarctica” Cassel, London   

(13)若井登・小口高編著(2008)『14人と5匹の越冬隊』南極観測第3次越冬隊、p.186

(14) 国立極地研究所(2019)『日本南極観測隊事故例集』 

(15) 南極OB会・南極50周年記念事業委員会編(2006)『南極観測隊-南極に情熱を燃やした若者たちの記録-』技法堂出版 pp.202-205

(16) 第15次南極地域観測隊(1976)写真集 『南極の自然に 15年目の記録』

(17) 国立極地研究所(1976) 『日本南極地域観測隊第16次隊報告』 pp.153-158 

石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール

前国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。

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