シリーズ「極地からのメッセージ」第16回

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三度目の南極へ

中山由美(朝日新聞社会部記者)

2019年7月26日、第61次南極地域観測隊の訓練に同行して瑞牆山に登頂

 「もう二度と、この景色を見られないんだ」。飛び立つヘリコプターの窓から昭和基地を見下ろしながら、熱いものがこみ上げてきた――。1年2カ月暮らした南極を離れる瞬間、小さくなっていく基地の景色は、今も記憶に鮮明だ。2005年2月、私は45次隊で初めての越冬を終えた。

 「最初で最後」と思った南極。だが今また、旅立ちの準備に追われている。しかも3度目。やはり「南極病」にかかってしまったか、それも重病のようだ。

 南極越冬から帰国した後、講演で各地を巡りながら、「南極へ行きたかった?自分で志願したの?」、何度もそう聞かれた。答えは「NO」。興味がなかった訳ではない。まさか行ける所とは思いもしなかった、行ってみたい所として考えも及ばない遠い所だったのだ。

 「なぜ選ばれたの?」という質問も答えに窮する。公募があった訳ではなく、四半世紀ぶりの記者派遣は社内の上層部で密談されていた企みで、一兵卒の記者は知るよしもなかった。1955年、日本の南極観測の言い出しっぺは朝日新聞社だった。矢田喜美雄記者の発案から始まった国家事業、詳しくはこのメルマガで、元朝日新聞記者の柴田鉄治さんが「南極と朝日新聞」のシリーズで紹介されているので、そちらをご覧頂きたい。第1次観測隊に小型機やヘリコプターを提供し、航空や通信、報道担当の社員10人を送り込んだ朝日新聞社だったが、「今では社員ですらその歴史を知らない者が少なくない」と柴田さんは嘆いていた。それどころか近ごろは、「まだ南極観測って、やっているの?」なんて寂しい声もたまに聞く。

 「極地の魅力を発信し、地球環境への関心を呼び起こしたい」と気概を持っている私だが、まだまだ仕事が足りていないようだ。気概といえば聞こえはいいが、とにかく「行きたい」という一心でチャンスを虎視眈々と狙ってきたのが本当のところだ。

初めての南極、雪と氷の世界で(2004年4月、45次越冬隊当時)

 45次越冬隊から帰国した年は取材もできず、講演やイベントに明け暮れた。白くまぶしい氷原、夜空を舞うオーロラ、それを目にした感動を話していて気づいた。現実感が薄れていく。言葉にできないほどの興奮を言葉にすればするほど、本当に自分があの南極の空の下にいたのか――と不思議に思えてくる。「ついこの前」が、あっという間に過去の遠い話になっていく。言いしれぬ寂しさと焦りが、「もう一度」という思いを募らせた。

 もう一つの極地・北極へも行ってみたくなる。実際に両極を見てこそ話ができるのではとの思いにも突き動かされた。2008年夏、北極・グリーンランド行を実現した。

 するとまた南極へ行きたくなる。51次隊では、昭和基地から700kmほど離れたセールロンダーネ山地へ行く地質と地形調査・隕石探査があると聞いて、2回目の南極行に挑んだ。それからまた北極、パタゴニアへ。そして北極、北極、北極……と気づけば7回も足を運んだ。

 今や「極道の女」と自称し、経験も重ねたが、年も重ねた。「南極で越冬するなら今のうち」、体力に自信はあれど、世の中はやはり年齢で見るもの、そんな焦りも出てきた。ただ「行きたい」といえば、すぐに行かせてもらえるほど会社は甘くない。新聞を読まない人も増えて、新聞業界の景気は右肩下がりだ。さらにハードルをあげているのは自分自身。最初は珍しさ先行、極地の話題なら「何でもあり」みたいなものだったが、回を重ねるごとに新たな話題に挑まなくては、出張も認められない。

 45次隊は「女性記者初」が、朝日新聞の売りだった。しかも南極大陸の内陸へ千キロ走り、ドームふじ基地で氷床を掘削する大プロジェクトがあった。51次隊では、隕石探査の同行取材が「報道初」、大陸の氷上での生活は1カ月半に及んだ。
 61次隊の話題もいろいろだ。それは後のお楽しみとして、今回は観測隊のオペレーションだけではなく、自分の挑戦もある。ドローン撮影だ。飛行訓練を重ねて認定(DJI CAMPスペシャリスト)もとった。

 通信回線も劇的に変わってきた。45次隊の大イベントの一つは、昭和基地でインテルサット通信衛星アンテナを建てることだった。越冬が始まる2004年2月、立川の国立極地研究所と常時接続になりインターネットが使えるようになった。その通信速度も飛躍的に伸びた今、南極からリアルタイムの発信もしたい。多種多様の撮影機材を仕込んで、デジタルやツイッターで楽しい写真や動画、メッセージを送りたい。

 越冬隊のアマチュア無線係にも入ることにした。ネットでどこでも簡単につながってしまう時代に、あえて無線で地球の裏側から届く声を探してみるのもまた新鮮だ。試験前数日の付け焼き刃でなんとか、アマチュア無線3級も合格した。ついでに、八甲田山でスキー検定1級も取った。もっとも昭和基地の周りは、10秒もあれば滑り降りてしまう斜面くらいしかないが。

 試験なんて数十年もご無沙汰だったが、この半年で三つ受験。「南極へ行くまでに」と期限を設けて公言すると、「後がない」とがんばれる。集中力も高まるものだと実感した。

 何度いっても極地には新たな発見がある。でも初心者がうらやましくもある。極地の素晴らしさに出会ったときの興奮や驚き、感動は、初めてのときには到底かなわないからだ。

 それでもまた、最初にできなかったことを、二度目にできなかったことを……とやりたくなる。3度目の南極、与えられた“期限”は2021年3月まで。やり残すことがないくらい、やってみたいとは思いつつ、きっとまた“忘れ物”をしそうな気がする。それを取りに、また行きたくなるのか。「南極病」は何度でもぶり返すんだろうなと今から思っている。

中山由美(なかやま ゆみ)プロフィール

朝日新聞社会部記者。南極2回、今秋から61次南極観測越冬隊を取材する予定。北極へは8回、パタゴニアやヒマラヤの氷河も取材した。2001年9月11日の同時多発テロ実行犯の生涯を追ってドイツや中東を取材。長期連載「テロリストの軌跡」(2002年度新聞協会賞受賞、単行本は草思社)を担当した。 2003年11月~05年3月、女性記者で初めて南極観測隊に同行して越冬。45次隊で、昭和基地から雪上車で1カ月、1000キロ遠征し、-60度のドームふじ基地に暮らし、氷床掘削を取材。09年11月~10年3月、51次隊でセールロンダーネ山地地学調査隊と氷上で40日間暮らし、隕石探査を取材した。 北極・グリーンランドへは5回。氷河や海氷観測、氷床掘削を取材、エスキモーの犬ぞり猟に同行。ノルウェー北部のスバルバール諸島などへも赴いた。2011年の東日本大震災では津波被災地を取材、海で潜水もした。 連載「プロメテウスの罠」(2012年度新聞協会賞、早稲田ジャーナリズム大賞)を担当し、放射能観測が妨げられた実態を暴いた「観測中止令」のシリーズは科学ジャーナリスト賞2012を受賞。 著書に「くらべてわかる地球のこと 北極と南極のへぇ~」(学研)、「南極で宇宙をみつけた!」「こちら南極 ただいまマイナス60度」(草思社)、共著で「テロリストの軌跡」(同)、「南極ってどんなところ?」(朝日新聞社)、「プロメテウスの罠」(Gakken)など。

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