南極観測と朝日新聞その11
元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治
私が同行記者として参加した再開第1次、7次隊の報告を続ける。新しい砕氷船「ふじ」が昭和基地から約50キロの氷盤に接岸したとき、500羽ほどのペンギンの出迎えを受けたところまで前号で記した。その後の7次隊の様子を続けたい。
昭和基地は無事、戸をこじ開けて入る
接岸した「ふじ」から昭和基地へ1番機が飛んだ。シコルスキー61型の大型ヘリに乗り込んだのは、村山雅美隊長ら第5次越冬隊で昭和基地の戸締りをしてきた隊員たちと私たち同行記者3人。
南極大陸を横目で眺めながら氷山の並んだ氷海上を飛んで、やがてオングル島が見えてきた。上空から見た昭和基地は、島の中央にポツンと建った山小屋のようだった。ヘリが着陸して、地上に立って見た建物は立派なんもので、プレハブ住宅のはしりと言われた建物はびくともしていなかった。
その建物の戸をこじ開け、なかに入ると、部屋のなかも直前まで人がいたかのような様子だった。とくに、食堂には食事のお皿などが机の上にそのままになっているのには驚いた。第5次越冬隊の最終便が来たのが食事中で、あと片付けもせずにヘリに飛び乗ったという話だった。
建物のなかは無事だったが、建物と建物をつなぐ通路には雪が吹き込んで、それが氷盤のように固まっていた。1番機で基地に入った私たちは、建物の中で一夜を過ごしたが、暖房がなくて寒かったことを覚えている。
忙しかったのは私たち記者団だ。「昭和基地は無事だった」という記事を寝袋にくるまりながら書いた。当時は、通信手段がモールス信号によるほかなく、したがって記事はすべてカタカナで書かなくてはならない。漢字が必要な場合は、字の説明をカタカナで書くので電文が長くなるのだ。その晩はほとんど徹夜だった。
朝日新聞の特電は「ペンギン・氷山・白夜」に
南極からの報道記事は、南極記者会の取り決めで、基本的にはすべての報道機関向けに送ることになっている。ただし、同行記者には、自社向けに「独自記事」を書くことが認められており、量は「共通記事の3分の1程度」と決められている。
「昭和基地は無事だった」の第1報はもちろんのこと、「ふじ」から昭和基地へのピストン輸送が始まったことなどは、全報道機関向けの共通原稿だったが、朝日新聞社向けの特電をどうするか。
朝日向け特電の第1報は、南極に向かう船上で「第7次越冬隊員による座談会」で、越冬中の観測の内容や隊員の抱負などを書いて送っていたので、昭和基地への空輸が始まり、基地の再建工事が始まった段階での第2報の何にするか思い悩んでいたからだ。
悩んだ末、私が出した結論は、「南極の大自然の素晴らしさを書こう」というものだった。南極観測はすでに6次隊まで終わっており、南極の自然についてはそれまでの同行記者たちによって書き尽くされたものかもしれないが、私が南極に来て最も感動したのは「大自然の素晴らしさ」であり、私の感動をそのまま書けば、朝日向けの特電になるだろうと考えたのである。
私が書き送った記事は「ペンギン・氷山・白夜」と題する3回の連載ものだった。1回目のペンギンは、接岸した観測船「ふじ」を出迎えてくれた500羽近いペンギンの様子を書いたうえで、生物担当隊員から聞いた「見物に来るペンギンは、3歳児前後の人間でいえばティーンエイジャーで、子育て前の暇なペンギンなのだ」という話を書き、ついでに「ペンギンの世界には学校がないから暇なのだ」と私の感想まで付け加えた。
2回目の氷山は、昭和基地への1番機の上空から見た氷山が生まれるところ、大陸に降り積もった雪の層が海に流れ出すところの光景を詳しく描き、ついでに氷山の氷で飲む「オンザロック」がいかに美味しいか、しかも、オンザロックのコップを耳に近づけると、「氷山のつぶやき」が聞こえることなども書き記した。
3回目の白夜には、写真をどうするかに、ひときわ苦労した。私の考え出した写真は、氷上にピッケルを立て、その影が1日中でどう変わるか、その影をヒモで描いて「日時計」のような形の写真を送ったのである。苦心した割には、読者の評判もあまりよくなかったようだ。人間の影が真夜中でも長く伸びている写真にすればよかったと後悔した。
大型雪上車の陸揚げに苦心した結果、「ふじ」が昭和基地に
大型ヘリによる輸送力は大変なもので、幸運の1次隊が昭和基地のすぐそばまで行って運び込んだ物資が270トン、不運の2次隊は0トン、空輸方式に変えた3次隊が53トン、といった状況だった「宗谷」時代とはガラリと変わって、「ふじ」に積み込まれた600トンの物資は、ほとんどすべて運び込まれた。
ところが、村山雅美隊長に嬉しそうな様子はなかった。ヘリでは運べない大型雪上車、KD600型が1台、船に残っていたからだ。村山隊長の悲願は、その雪上車を使って昭和基地から南極点まで行く極点旅行を9次隊で実施することだった。
村山隊長の悲願を知っている「ふじ」艦長が、KD600型雪上車をどこで陸揚げしようかと苦心の操船を続けているうちに、なんと「ふじ」は昭和基地まで着いてしまったのである。
私たち観測隊員や同行記者たちは、ほぼ全員が昭和基地で建設作業に従事していたため、突然、姿を現した「ふじ」に仰天した。驚嘆の声はやがて喜びの歓声に替わり、全員が見守る中で、KD600型雪上車が静かに船から降ろされ、そろそろと陸上にあがった。
大型雪上車の陸揚げで、7次隊の使命は、100%完了した。「ふじ」を目の前にした昭和基地の野外で行われた祝賀パーティーは、みんなニコニコ顔で、乾杯に次ぐ乾杯、心ゆくまで飲み明かした。
昭和基地の再建は計画通りに進み、山小屋のようだった昭和基地は、建物やアンテナ類が乱立する「科学の街」に変身した。その新しい昭和基地に18人の越冬隊員を残して、「ふじ」は静かに基地を離れた。
7次隊の任務は終わったわけだが、それからの帰途にいろいろなことがあった。7次隊の特色は、むしろ帰途にあったというべきかもしれない。帰途に何があったのか。それは次号に。
柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール
元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。 |