【南極点初到達のあらそい】もっと知りたい5~7
もっと知りたい5~7
Google Earth教材内でご紹介している「もっと知りたい」の詳細ページです。
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ロアール・アムンセン
1888年にノルウェーの探検家ナンセンがグリーンランドの氷の大地をスキーで初横断し、英雄となった。17歳のロアール・アムンセンは、このとき、探検家になると心に決めた。
25歳のときベルギーの南極探検隊に応募し、航海士として参加したが、船は12か月間氷に閉じ込められ、長い越冬を体験した。
1903~1906年には、ヨーロッパの国々が400年間も挑戦し果たせなかった北西航路を47トンの小型漁船で通過した。⇒もっと知りたい5
この探検で、アムンセンは、カナダ・エスキモーの犬の扱い方やアザラシの毛皮を使った装備品が優秀なことを学んだ。
ヨーロッパと東アジアを結ぶ海上交易ルートは、15世紀に、ポルトガルがアフリカ南端の喜望峰を通るインド航路を開拓した。16世紀には、マゼラン海峡を通って大西洋から太平洋に抜けるルートが発見された。 イギリスやオランダは、ポルトガルとスペインが独占するルート以外の北極海に新ルートを発見しようとやっきになったが、北東航路、北西航路とも厚い氷が立ちふさがり、探検隊の遭難が相次いだ。 アムンセンは、カナダ北部の多島海を進み、途中3回も越冬し、ベーリング海峡を抜け、アラスカ西岸に到達した。 いっぽう、北東航路は、スウェーデンのノルデンショルドがノルウェーからロシア北岸に沿って進み、途中1回越冬し、1879年(明治12年)にベーリング海峡を通って横浜に到着した。
アムンセンが使った『フラム』号(402トン)は、ナンセンから借用したものである。ナンセンは、グリーンランド横断の後、冬期北極海の漂流実験(1893~96年)を行った。海氷に船を閉じ込め。海流に身を任せ北極点に到達しようという試みだった。そのため、船体を丸くして、海氷の圧力に耐えられるように、特別に設計された。
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帆船だが、石油を燃料とする補助エンジンが付いていた。
丸みを帯びた船体は、氷の圧力で押しつぶされず、上に持ち上がるように設計されている。 貨物をたくさん積めるように船体は幅広くできている(全長39m、船幅11m)。ただ、直径1.75mの小さなプロペラなので 4.5ノット(時速8.3km)の速力しかでなかった。
白瀬矗(しらせ のぶ)
1861年 秋田県にかほ市にて誕生
秋田県由利郡金浦村(現にかほ市)の「浄蓮寺」住職の長男として生まれた。満8歳で近所の医師・佐々木節斎の寺子屋に入った。ここで北極の話を聞き、探検家を志した。上京し18歳で小学校に入学した。「僧侶になっては探検ができない」と陸軍軍人となった。
明治26年、北極探検の前に経験を積むため、郡司成忠が率いた千島探検に参加した。当時、千島列島は日本領で、島々の探検・開発が望まれていた。ロシアのカムチャツカ半島に近い千島列島最北端の占守(シュムシュ)島で2年間の越冬生活を体験した。
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1875年(明治8年)、ロシアと日本の間で、「樺太・千島交換条約」が結ばれた。これにより、千島列島は全島が日本領となった。
海軍大尉であった郡司成忠(作家、幸田露伴の兄)は、ロシアに立ち向かう北方警備と千島開拓を目的に、有志を募り、5隻のボートで東京から千島探検に出発した(明治26年)。
白瀬は、この探検に函館から参加し、占守(シュムシュ)島で2年間越冬した。この探検隊では、パラムシロ(幌筵)島とシャスコタン(捨子古丹)島の10名は全員死亡、占守島では、6人のうち3名が壊血病などで亡くなった。
白瀬は、北海道庁が派遣した漁船「八雲丸」で救出された(明治28年)。白瀬が越冬中、日清戦争があった。