大航海時代・・・
15世紀中頃より、スペインやポルトガルを中心にヨーロッパの国々はアジアの豊かな物資をもとめて世界に進出しました。
現代でも行くことが難しい南極や北極。当時の人々なぜ目指したのだろう?一緒に考えてみましょう。
まずは、北極の話から始めましょう。ヨーロッパから西に向かったクリストファー・コロンブスが、1492年に到着したのは、本来の目的地アジアではなく、バハマ諸島の小さな島でした。
スペイン国王の命令により、インドや中国への航路を開発し、貿易による利益を求める
ことが探検の目的でした。
同じころ、ポルトガルの国王に命じられたバスコ・ダ・ガマは、リスボン(ポルトガルの首都)を出発しアフリカ最南端、喜望峰を回り、初めてインドに到達しました(1498年)。
この時代、スペインとポルトガルは世界各地へ探検隊を派遣し、貿易利益を独占する勢いでした。
イギリス、オランダ、フランスに残された東洋への水路は、北極海航路だけでした(図1)。 この航路開拓に特に熱心だったのはイギリスで、多くの探検家を北極海に送り込こみました。最初に 北極海の北西航路の探索に出かけたのは、ジョン・ガボットで、1497年にニューファンドランド島を発見しました。 さらに、ジョンデービスやヘンリー・ハドソンたちは、グリーンランドやカナダ北部に向かい、ヨーロッパ人にとっては新しい地域に到達しました。 しかし、1611年にハドソンが行方不明になって以降、北極探検は200年間下火(勢いがなくなってしまうこと)になりました。
イギリスの北極探検を再開したのは、海軍のジョン・バローでした。彼は1818年、2隊による探検隊を派遣しました。 第1隊は北東航路、第2隊が北西航路を航海し、ベーリング海峡で集合する計画でした。 しかし、両隊とも厚い氷にはばまれ、失敗しました。 1840年代、イギリスは再び北西航路の発見に乗り出しました。ジョン・フランクリン指揮官のもと、1万人もの大歓声のなか、2隻の船は テムズ川河口を出航しました。 エレバス号とテラー号は、氷海航行を想定して最新の技術で改造された長さ30m以上もある船でした。 船には、補助蒸気エンジンやプロペラが装備され、3年分の食料、1,000冊以上の本、 水の蒸留装置(海水を真水にする機械)、 スチーム暖房など 快適な設備を整えていました。 しかし、グリーンランドを経由した後、2隻の船は行方不明になりました。 多くの隊員とともに、指揮官のフランクリンも、2年後に死亡が判明しました。 2隻とも氷に閉ざされたため、隊員は陸路で進みましたが、低体温症、食料不足、鉛中毒、 ビタミンC不足による壊血病などで全員が死亡したと考えられています。
1893年からノルウェーのナンセンが画期的な耐氷船を造りました。 丸みを帯びた船体は、氷の圧力で押しつぶされず、上に持ち上がるように設計されています。 この船は、その後の耐氷船や砕氷船の原型ともなり、アムンセンに引き継がれ、後に南極に向かうことになります。
北東航路を初めて通過し、ベーリング海峡をぬけ横浜に到着したのは、フィンランド人のノルデンショルドでした(1879年)。北西航路を初めて通過したのは、ノルウェーのアムンセンです。 彼は、補助エンジン付きの小さな帆船「ヨーア号」で3年かけてグリーンランドからアラスカに抜けました(1906年)
アムンセンは、次の目標を「北極点」到達に定めました。しかし、1909年 にアメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達したことを知ると、南極点到達に目標を変更しました。 すでに出発していたイギリスのスコットとアムンセンの南極点初到達の争いが始まりました。結果は、装備や技術面で優すぐれたアムンセンが1911年12月14日に南極点に到達(図2)。 スコットは、約1か月遅れて到達しましたが、帰路、力尽き死亡しました。二隊の大きな違ちがいは、輸送方法でした。 アムンセンは犬を、スコットは馬を使いました。馬はエサに草が必要で汗をかきます。犬は汗をほとんどかかず、現地のアザラシ等を食べることができました。 南極から帰ったアムンセンは、再び北極探検に挑戦し、飛行船を使って、北極点を通過する北極海横断飛行に成功しました。 しかしその後、イタリアの飛行船遭難の捜索に出かけたまま、帰らぬ人となりました。
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