南極、フロンティアはこれだ!

ーシリーズ「南極・北極観測を応援する議員たち」第1回ー

衆議院議員 谷垣 禎一

インタビュアー:福西 浩

福西 谷垣先生は南極観測隊員・「しらせ」乗組員壮行会に毎年必ず出席され、南極に旅立つ隊員・乗組員を励ましてくださっています。また2代目しらせ建造のために ご尽力いただきました。こうしたことから南極には何か特別な想いをお持ちのように私たちは感じています。そこで最初にお聞きしたいのですが、南極に興味を 持たれたのはいつ頃のことですか。また何かきっかけがありましたか。
谷垣 私は昭和26年に小学校に入り、昭和32年に小学校を卒業したのですが、子供の頃に非常に印象深かったことの一つは、昭和28年にエベレストがヒラリーとテンジンによって初登頂され、そして昭和30 年には日本のマナスル隊が初登頂に成功し、その翌年、昭和31年に日本の南極観測が始まったことですね。もちろん私の小学校時代には世界初の人工衛星スプートニック1号の打ち上げなどもありましたが、エベレストとマナスルと南極が、こういう所にフロンティアがあるんだと、この3つの出来事に子供心に非常に興奮し、感動したわけです。
また父からよく言われたことがあります。今の方からは想像もできないと思いますが、「お前たちはかわいそうだ な。戦争に負けてお前らは4つの島からなかなか出られない。俺は学生の頃、朝鮮に行ったり満州に無銭旅行に行ったりしたが、お前らは狭い中で、気宇が小さくなって気の毒だ」と。朝鮮だ、満州だと言うと今は叱られるかもしれませんが、やはり戦争に負けて4つの島しかない、なかなか外に出られない。そういう中で、「フロンティアはこれだ!」というのが小学生時代の私の思い出でして、それが南極への関心につながっているんですね。
福西 東大のスキー山岳部に入られたのもその思い出と関係があるのでしょうか。
谷垣 そうですね、エベレストとかマナスルなど、あの頃はそういうことがあって、登山も一種のブームでした。私が大学に入学した時は一番の登山ブームの少し後ですが、大学山岳部に入部する者が非常に多かった時代です。入部してみると、ちょっと極端な言い方ですが、ヒマラヤ派と南極派が先輩にいましてね。東大の山岳部OBからもずいぶんたくさんの方が夏隊や越冬隊の隊員となって南極に行かれました。
福西 雪上車による昭和基地―南極点往復5000キロトラバースを成功させた村山雅美さんもそうですね。
谷垣 ええ、まさに村山雅美さんもそうですし、鳥居鉄也さんもそうですし、東大山岳部OBから南極に行った方がたくさんおられたんですね。そういう話を聞きながら学生時代を送った思い出があります。
福西 私もやはり中学時代に南極観測に興味を持ち、オーロラの研究がやりたくなり、第1次南極観測隊の隊長をされた東大の永田武教授の研究室に入りました。谷垣先生は法学部ですが、私は理学部でした。そして最初に南極に行ったのは大学院の学生だった時ですが、南極の自然に感動して、その後、南極にのめり込んでしまいました。そこでお伺いしたいのですが、谷垣先生が国会議員になられ、南極観測事業に関係されるようになったのはいつ頃のことですか。
谷垣 議員になった当時は南極のことは全然やっていなかったんです。ただ私の山岳部の先輩の中にも南極越冬隊などに参加した者がおりましたので、そういう方からお前も少し南極に関心を持てと言われたのです。具体的には何だったかは忘れましたが、やはり学生時代に村山雅美さんや鳥居鉄也さんのような先輩がおられて、自分たちの年次の前後でも南極に行く人がいて、その謦咳に接したということが下地にあり、関心を持ち続けました。
でも一番関与したのは、初代の「しらせ」から今の2代目「しらせ」に切り替える時で、私はちょうど財務大臣になった時でした。私が赴任した段階では主計官のガードはかなり固かったですね。どちらかというと、しらせの後継船を直ちに作る必要はないのではないかという雰囲気でした。ただ私は南極観測をずっと続けていくことが重要だと 思っていました。温暖化とかいろいろ言われている中で、地球の環境はどう変わって行くのかを考えようとすると、南極で観測データを半世紀近く積み重ねてきたというのは非常に大きなことで、いわゆる「継続は力なり」ということではないかと思っていました。
そういう時に村山雅美先輩が私の大臣室に訪ねて来られ、後継船の建造に協力してほしいという申し出がありました。そこでなんとか後継船の予算をつける努力をしました。でも搭載ヘリコプターをどうするかなどいろいろな問題があり、安産でもなかったですね。
福西 「継続は力なり」というお話をお伺いし、南極関係者の一人としてとても心強く感じます。また昨年11月の南極観測隊員・「しらせ」乗組員壮行会でのご挨拶の中で、「南極観測を応援する議員連盟をつくりたい」との構想をお伺いし、大変興味を持ちました。どのような活動をお考えなのでしょうか。
谷垣 そのことですが、南極観測を長期に継続することは大変なことだと感じています。南極観測が砕氷船「宗谷」の老朽化によって第6次観測隊で一時中断して、それを再開するために中曽根康弘総理(当時は科学技術庁長官)がずいぶんと骨を折られたと聞いています。中曽根御大のように、今度は我々が応援団になることが 必要かなと思っています。南極観測隊の壮行会などの行事を見ていますと、よく顔を出す議員はだいたい同じなんですね。例えば、衆議院議員の金田勝年さんは 秋田出身ですが、南極探検家の白瀬矗中尉が秋田出身ということもあって、南極観測への関心が非常に高いです。こういう議員たちが応援団になるのではないかと思います。
もう一つの理由は、一昨年、日本は北極評議会(アークティックカウンシル)のオブザーバー資格が承認され、国会議員の中に「北極のフロンティアについて考える議員連盟」という勉強会が発足しました。そこで南極に関しても、国会議員の関心を深めていくような勉強会を作ろうと考え、金田議員に取りまとめをお願いしています。そして時々は北極の勉強会と合同でやってもいいと考えています。
福西 私たちの財団も南極と北極の両方の研究を支援しています。財団のロゴマークは陸の南極と海の北極を対比したデザインですが、両極の自然環境を比較することによって地球環境変動の原因を究明できると考えています。
谷垣 そういうお話をお聞きして、なるべく早く南極の勉強会を立ち上げるように金田さんに頑張ってもらおうと思います。
福西 谷垣先生は以前、私たちの財団が発行する「極地」という雑誌に「南極50周年に想う」という巻頭言を書かれ、その中でアムンゼン隊と南極点一番乗りを争ったスコット隊のメンバーだったチェリー・ガラードの著書「世界最悪の旅」を読み、「厳しい環境の中での人間の敢闘精神には驚くほかはない」と述べられています。私も南極観測隊に参加し、南極でその本を読んで、著者の「探検とは知的好奇心の肉体的表現である」という言葉に大きな影響を受けました。そこで、南極や北極の厳しい自然の中で行動した人々の体験を若者たちに伝えることは、チャレンジ精神に富んだ人材の育成に大いに役立つと思いますが、いかがでしょうか。
谷垣 チェリー・ガラードの本もそうですが、キャロライン・アレグザンダーの「エンデュアランス号―シャックルトン 南極探検の全記録」という本を比較的最近読んだんですが、写真もずいぶんきれいですね。エンデュアランス号は木造船なんですかね。最後は氷に閉じ込められ て動けなくなり、船はつぶされてしまう。しかし筆舌に尽くしがたい困難によく耐えて、1年半後に全員生還する。ああいう時のリーダーのあり方などを考える とものすごく面白いですね。ちょっと大仰に言うと、人間の活動のあり方、いろんな活動があるけれど、こうゆう分野があるんだというのを若い人たちに知って もらうのも教育の素材として非常にいいですね。
福西 私たちは公益法人として、極地研究の支援と同時に、研究成果の普及・教育活動に力を入れ、グローバルな視点をもち、行動力のある人材の育成に貢献したいと考えていますが、公益法人の役割について先生はどのように考えていらっしゃいますか。
谷垣 私は、教育における公益法人の大きな役割は、「なるほどこういう世界があるんだ、こういう展望があるんだ、こういう人間の活動領域があるんだ」というような ことを考えさせる活動だと思いますね。宇宙開発なんかもそういう面がありますが、南極でやろうとして先人が歩んできた道のり、その中に、さっきの繰り返し になりますけれど、人間の活動やあるいは情熱とか意志のあり方とか、非常に興味深い、面白い例がたくさんあります。そういうものを知った面白さというか感 動というものを青少年の教育の中に活かせないものかと思います。活かすには教える側もうまく工夫しないといけないですね。
福西 最近始まった南極観測事業の一つに、「教員南極派遣プログラム」があります。国立極地研究所と私たちの財団の共同プログラムで、小・中・高校生の教員を南極の昭和基地に派遣して、そこから衛星回線によるTV会議システムを使って「南極授業」を行ないます。派遣する人数は毎年1、2名です。こういう取り組みをもっと大規模に実施できれば大きな教育効果が期待できると思いますが、いかがでしょうか。
谷垣 今の話は大変興味がありますね。学校の先生方が南極に行っておられると初めて聞きましたが、おそらく先生方も南極に行って、相当大きなカルチャーショックを受けられたと思います。そういう感動を少しでも生徒たちに伝えてもらえたら教育効果は大きいですね。
福西 私の南極での経験ですが、自分が感動すると伝える力が違ってくると思います。2年前に東北大学で働いていた時のことですが、第53次南極観測隊の教員南極派遣プログラムに参加した仙台高等学校の小野口先生が帰国後に仙台市科学館で南極教室を開催され、大変好評でした。この時は南極観測隊OBとして協力させていただいたのですが、こうしたイベントが全国規模で開催できればいいですね。
谷垣 まったくその通りですね。我々の方で何かお手伝いできることがあれば言ってください。
福西 ご支援をよろしくお願いいたします。別の話題ですが、南極観測事業のために、防寒装備、インスタント食品、プレハブ建築、雪上車、ナビゲーション、衛星通信、氷床ボーリング、南極ロケット、各種の観測・分析機器、医療、報道など、様々な分野で日本の企業が多大な貢献をしてきましたが、そういう活動があまり知られていない気がします。南極観測事業での企業の役割をどのように考えていらっしゃいますか。
谷垣 あまりきちんと考えたことはなかったですが、インスタント食品など、我々が学生時代に山に行くときに使った乾燥野菜とかアルファ米とかは南極のために開発したのでしょうか。だから南極観測からずいぶん恩恵にあずかっていると思います。企業もそういう需要がなければ開発しようとする意欲もわかないので、日本のような普通の環境と違う、南極という厳しい環境の中にチャレンジする機会を企業が持てたのは南極観測事業のもう一つの貢献だと思います。
福西 南極観測隊員の装備品の一つに防寒雪靴があるんですが、それは鳥居鉄也さんが開発されたものです。財団がその特許を引き継ぎ、その特許に基づきアシックスが製造しています。大変優れた防寒性能をもち、究極の防寒雪靴といわれており、アメリカ隊、ニュージーランド隊、ドイツ隊、中国隊などもこれを使っています。
谷垣 それは暖かいのですか。
福西 暖かいだけでなく、すごく軽いのが特長です。
谷垣 鳥居さんはそんなこともやっていたのですか。
福西 はい、鳥居さんが1963年にオニツカ社(現アシックス)の故・鬼塚喜八郎社長の協力を得て開発したものです。アシックスはスポーツシューズで世界的な企業に発展しましたが、この他にも南極観測に貢献したたくさんの企業の技術がいろいろなところで活きていると感じています。
福西 最後にお聞きしたいことは、北極での研究・調査活動についてです。北極の海氷域は年々融けて面積が小さくなっていますが、南極の海氷域は逆に年々広がり、砕氷船しらせが昭和基地に近づくのが大変になってきました。北極と南極で全く逆のことが起こっています。
谷垣 北極の海氷域の面積が縮小するのは温暖化ということが多分にあると思いますが、南極の海氷域の面積が拡大しているのは周期的な変化があるということですか。
福西 南極の海氷域がどうして拡大しているのかはまだ解明されていませんが、一つ考えられることは、温暖化で海水面温度が上昇すると海からの蒸発量が増え、その結果として海氷上への降雪量が増え、海氷を融けにくくしている可能性です。しらせが昭和基地に近づくのが困難になっているのは、5、6メートルの海氷の上にさらに2メートルほどの積雪があるので、砕氷がうまくできないからです。このように北極と南極の違いをみると、温暖化の影響が実際に地球全体でどうなるかは北極と南極の両方をよく調べないと分からないと思います。
谷垣 温暖化を解明するには北極と南極を合わせて研究することが非常に意味があることなんですね。私もまだよく勉強している訳ではありませんが、北極海の海氷が少なくなったので北極海航路に関心を持つ国が多いですね。そうすると、宇宙でもそういう問題がありますが、北極を航路やその他の目的に使う時の、条約とか国際間のいろいろな意味でのルールを検討しなければならないと感じています。そういったことを含めて、総合的に極地問題の研究を進めていく必要があると思います。
福西 私たちの財団も南極と北極の比較研究がさらに発展するように活動を続けていきたいと考えています。本日は貴重なお話をたくさんお伺いでき、極地研究の重要性を広く社会に知っていただくよい機会となりました。ありがとうございました。これからも極地の研究と研究成果の普及・教育活動への応援をよろしくお願いいたします。
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谷垣 禎一(たにがき さだかず)
谷垣 禎一(たにがき さだかず)

1945年生まれ、東京大学法学部卒。弁護士を経て、1983年に衆議院議員初当選し、以来11回連続当選。法務大臣、財務大臣、国土交通大臣、自由民主党総裁、政調会長等を歴任。2014年9月に自由民主党幹事長に就任。

福西 浩(ふくにし ひろし)
福西 浩(ふくにし ひろし)

東北大学名誉教授、理学博士。東京大学理学部卒、同理学系大学院博士課程修了後、米国ベル 研究所、国立極地研究所を経て東北大学教授として宇宙空間物理学分野の発展に努める。南極観測隊に4度参加し、第22次隊夏隊長、第26次隊越冬隊長を務 める。2007年から4年間、日本学術振興会北京研究連絡センター長を務め、日中学術交流の発展に尽力する。