シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」 第11回

南極での小型航空機の利用

-その2 南極観測再開以降-

国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二

1.はじめに

前回は、南極で活躍した第6次隊までの航空機について説明しました。表1はそれをまとめたものです。
第1次隊では、朝日新聞社所有の機体を借用しました。第2次隊のビーバー機が、第1次越冬隊員を「宗谷」に収容した感動的な映像は、皆さんも見たことがあるかも知れません。同時に15頭の犬が昭和基地に置き去りになったのも話題になりました。ちなみに、第3次隊までの操縦士、整備士は、朝日新聞社の航空部員が担当しました。第6次隊では、運航を海上保安庁に委託したので、操縦士と整備士も保安庁の職員です。

表1 第1次から6次隊までの小型航空機の飛行実績(1)
隊次 第1次隊 第2次隊 第3次隊 第6次隊
機種 セスナ180 デハビランドDHC-2ビーバー デハビランドDHC-2ビーバー セスナ185
所属 朝日新聞社 文部省 文部省 文部省(海上保安庁に委託)
飛行期間 1957.1.14~2.13 1958.2.6~2.18 1959.1.4~2.5 1962.1.14~1.23
飛行回数 20回 26回 4回 11回
飛行時間 37時間55分 24時間50分 6時間35分 1時間15分

2.「ふじ」就航後における夏期の小型機の運用

昭和40年の昭和基地再開後、航空機の越冬運用を検討するため、昭和41年の5月と6月の2回に亘り会合がもたれましたが、時期尚早ということで見送りになりました。検討の結果、民間機のチャーターによって第10次から12次隊までの夏期間のみ3か年運用を行うことになりました。その3か年の飛行実績は表2の通りです。

表2 第10次から12次隊までの小型航空機の飛行実績(1)
隊次 第10次隊 第11次隊 第12次隊
機種 ロッキードラサ60 ロッキードラサ60 ロッキードラサ60
飛行期間 1969.1.22~1.27 1970.1.9~1.31 1971.1.20~2.28
飛行回数 15回 15回 10回
飛行時間 30時間27分 52時間37分 15時間31分

小型航空機の主な用途は、地図の作成、人員輸送、内陸輸送隊への緊急物資輸送など多岐にわたりました。しかし、船からの機体の荷下ろし、組み立てに労力と時間がかかること、および海氷上滑走路雪氷の融解問題などが指摘されました。各隊次の運航状況をみてみましょう。

2.1 「ふじ」就航後における夏期の小型機の運用

スキーを装着した胴体を、「ふじ」の接岸点から昭和基地までの約2kmを雪上車でけん引し、海氷上で主翼等の組み立てを行いました。長さ800m、幅40mの滑走路を、昭和基地の北東約150mに設定しましたが、滑走路のあちこちにパドルがあり、橇に雪を積んでけん引し、埋め立てが行われました。この時期は日射が強く、滑走路の雪面が汚れていると融解が進むため、細心の注意が必要でした。

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図1 ロッキードラサ60

飛行の主な目的は、しらせ氷河付近とやまと山脈の航空写真撮影でした。1月27日、ラサ60機がやまと山脈で空撮を実施中、昭和基地では大変なことが起きていました。滑走中間の右側にあった長さ30m、幅10m、高さ10mの氷山が突然横転したのです。その影響で滑走路中間付近に幅15m、さらにその北東側に幅10mの大きなクラックができ、滑走路が分断されてしまいました。このとき、氷厚を測ってみると60cmしかありませんでした。飛行中にこの連絡を受けたパイロットは、滑走距離を稼ぐため、やむなくクラックより手前側だけを使うことにし、整地されていないところに着陸しました。しかし、雪面の凹凸がかなりあったため、前脚柱取り付けボルトが折損、約350m地点まで滑走し、前のめりの状態で停止しました。プロペラその他に損害がありましたが、幸いに搭乗者は無事でした。それ以降、飛行は中止となり、分解し、「しらせ」搭載のヘリコプターで船上までスリング輸送しました(2)。

2.2 大陸上の滑走路で運用 (第11次隊)
1970年1月2日のヘリコプターからの偵察では、海氷上にはパドルが多く、アザラシが点在し、長さ800mもの滑走路を設定することは困難と判断されました。しかし、翌日からブリザードになり1月5に「ふじ」が接岸したときには、降雪によりパドルが埋まり、滑走路を造ることができました。しかし、運用できたのは、1月9日から16日まででした。再びパドルが発達してきたので、大陸のS16地点に第二滑走路を新設しました。大きなサスツルギもなく、離着陸時にノーズスキーをひっかける心配もありませんでした。撤収は、S16地点で分解、ヘリコプターのスリング輸送で船上に持ち帰りました。リュツオ・ホルム湾沿岸およびやまと山脈の写真撮影で52時間の飛行実績を残しました。(3)

2.3 「ふじ」の往路ビセット地点から離陸し昭和基地へ(第12次隊)
1971年1月10日、昭和基地に向かってラミングを繰り返していた「ふじ」は、前部マストに異常振動を認めたので機関を停止し点検したところ、右プロペラ1枚が根元から折損しているのが判明しました。このため、その場で待機していたところ、12日から猛烈なブリザードになり、2月10日まで約1か月間、ビセット(船が氷に閉じ込められ身動きできなくなること)となりました。この間、観測隊は、小型航空機の昭和基地向けの飛行を待ち望んでいました。というのは、今回の任務の一つに、前次隊内陸旅行隊員の大陸からの収容があったからです。「しらせ」の大型ヘリコプターは、規定により100マイル以遠の飛行はできません。「ふじ」から約1km離れた定着氷上に長さ500mの滑走路を設け、機体をその場所までスリング輸送しました。1月20日、離陸後約2時間の飛行で昭和基地に到着しました。そして、1月24日、大陸上のS16から旅行隊員5人をピックアップしたのです。ちなみに、ビセットから解放された「ふじ」は、定着氷縁に沿って開水面を進み、2月11日、昭和基地から82マイルの地点から、ようやく第一便を飛ばしました。その後、ブリザードの合間を縫って3月2日には、昭和基地から20.4マイル地点まで進み、ラサ号胴体のスリング輸送に成功しました(4)。
10次隊から始まった観測隊の小型航空機の導入と運航に精力的に取り組んだのは、第1次隊気象担当の越冬隊員で、その後、設営に転向した村越望さんでした。彼は、国立科学博物館極地部に移籍後、10次、12次隊の夏隊長として参加し、小型航空機運航の陣頭指揮を執りました。

3.「ふじ」就航後における夏期の小型機の運用

3.1 内陸旅行隊へのパラシュート投下失敗、ハードランディング
航空機の冬期運航には、航空法規上の問題点もありましたが、航空局や極地研航空分科会などの協力が得られ、第15次隊より2年越冬が実現しました。夏期だけでは、40~50時間の飛行しかできませんが、越冬により、計画飛行時間は、200時間に伸びました。第15次隊が持ち込んだ機体は、セスナ185です。1974年1月16日の試験飛行後、早速、内陸に向けて飛び立ちました。前次隊のやまと山脈旅行隊が、帰路、みずほ基地から昭和基地に向かって雪上車走行中、セスナ機後部の窓からパラシュート投下を行いました。ところが、これが尾翼に引っ掛かり、機体はバランスを失い、サスツルギの発達した硬い雪面にハードランディングを余儀なくされました。機体の主脚支柱などに軽微な損傷がありましたが、再び離陸して無事昭和基地に戻ることができました。この機体には、夏隊長と越冬隊長が搭乗しており、観測隊の管理体制が問題になりました。この事故の影響で飛行再開できたのは、冬明けの11月7日でした。結局、15次隊の総飛行時間は、80時間15分と、計画を大幅に下回りました。越冬中、専用の格納庫がないため、主翼等は分解格納したものの、胴体は野外に係留したままで、最大瞬間風速42.9m/sにも耐え、小型機越冬運用の実績を作ることができました。

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図2 航空機運用に情熱を注ぎ込んだ村越望さん(中央)

3.2 単独越冬運用から2機体制へ
第16次隊は、15次隊から機体を引き継ぎました。ハードランディングで損傷を受けた主脚部品は国内で購入し持参しました。1年間の飛行を終えた1976年1月20日、セスナ機は昭和基地から「ふじ」の舷側に着陸し収容されました。総飛行時間は、246時間35分で、越冬運用のメリットが十分に発揮され、その後、越冬運用が定常的になりました。
第18次隊では37時間55分の夏期のみの運航でした。第20次隊は、越冬運用の予定でしたが、1979年2月8日~9にかけて襲来した最大瞬間風速44.8m/sのブリザードで、海氷に係留してあった機体を固定するアンカーが抜け、左主翼および尾翼を破損、運用を断念することになりました。
第21次隊からは念願の2機態勢で越冬運用することになりました。新たな機体は、セスナ185よりも一回り大きいピラタスPC-6です。しかし、越冬間もない1980年3月17~18日のブリザードにより18日未明、基地東側海岸の定着氷流出に伴い、2機が氷盤と共に流され、セスナ機は水没してしまいました。ピラタス機は、3月26日、ソ連船「ミハイルソモフ号」搭載の大型ヘリコプターによって吊り下げ回収されました。ピラタス機は、アイスレーダー観測やセールロンダーネ山脈の空撮に活躍、単独で259時間の総飛行時間を記録しました。

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図3 ピラタスPC-6を救出したロシアのMIL-8ヘリコプター

3.3 2年運航・1年休止サイクルの確立
2機運航体制になってから、航空法による機体の耐空証明更新などの手続きもあり、2年間継続運航後、日本に機体を持ち帰り・整備、11月「しらせ」に再び搭載し、南極持ち込みというサイクルが確立しました。各隊次の飛行実績を表3に示します。

表3 各隊次の飛行実績(1,7)
隊次 第22次 第24次 第25次 第27次
機種 ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6
飛行期間 1981.4.2~
1882.1.28
1983.1.3~
1984.1.5
1984.1.1~
12.26
1986.1.10~
1987.1.3
飛行日数 66日 72日 91日
飛行時間 231時間45分 369時間45分 311時間20分 432時間25分
隊次 第28次 第30次 第31次 第32次
機種 セスナ185ピラタスPC-6 ピラタスPC-62機 セスナ185ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6
飛行期間 1987.4.10~
1887.12.29
1989.4.26~
1990.1.21
1990.1.7~
1991.1.14
1991.1.13~
1992.1.22
飛行日数 48日(昭和) 65日 62日 46日
飛行時間 246時間55分 338時間25分 229時間45分 164時間05分

3.3. 1 セールロンダーネ山地に着陸した24次隊
第24次隊では、4月に昭和基地周辺の海氷が流出したため、飛行を中止し、10月より本格運行を再開しました。12月3日、内陸旅行隊が待機するセールロンダーネ山地東部の青氷地帯にセスナ、ピラタス機が着陸、8日まで駐機し航空写真撮影に備えましたが、連日の地吹雪で実施できませんでした。

3.3. 2 やまと山脈とあすか基地に駐機してアイスレーダー観測した27次隊
第27次隊では、やまと山脈の青氷地帯に航空拠点を設け、やまと山脈およびセールロンダーネ山地のアイスレーダー観測などを行いました。さらに、11月29日、あすか基地に両機をフェリーし、アイスレーダー、CO2サンプリング、空撮などを実施しました。これらのオペレーションを行うため、4名の航空支援隊が航空管制などの設営支援を行いました。そのため、通常よりも100時間も多い飛行時間を記録しました。
翌年の28次隊からは、あすか基地の越冬が始まり、冬明けの11月から昭和基地から2機が飛来し、観測飛行を行っていましたが、昭和基地の滑走路状態が悪くなり、1987年12月29日、 ブライド湾の定着氷上に急きょ着陸し、「しらせ」に収容されました。

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図4 やまと山脈航空拠点でのセスナ機(左)とピラタス機(右):27次隊(1986年)

3.3. 3 ドームふじ基地建設の支援
第30次隊では、ピラタス2号機を持ち込み、ピラタス2機態勢で運航を実施しました。1号機は、分解し持ち帰りました。翌年、31次隊ではセスナ185を持ち込み、ピラタス2号機を運用しました。32次隊では、越冬に入った3月末に駐機場の除雪の際、ミニブルドーザがピラタス主翼部に損傷を与え、飛行不能になりました。34次隊から始まったドームふじ基地の建設に関連し、みずほ基地から255kmのMD244地点に滑走路を造成し着陸しました。第35次隊ではドームふじ基地建設のための物資輸送を内陸旅行隊が何度も行ったため、途中での人員交代などに航空機を活用しました。

表4 各隊次の飛行実績 (7)
隊次 第34次 第35次 第37次 第38次
機種 セスナ185ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6 セスナ185
飛行期間 1993.1.9~
1994.1.5
1994.2.24~
1995.1.6
1996.12.31~
1997.1.20
1997.1.22~
1998.1.2
飛行日数 62日 75日
飛行時間 259時間20分 2767時間45分 245時間10分 271時間05分
隊次 第41次 第42次 第44次 第45次
機種 セスナ185ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6 ピラタスPC-6 セスナ185ピラタスPC-6
飛行期間 2000.1.3~
2000.1.19
2001.1.20~
12.20
2003.1.6~
12.26
2004.1.7~
12.16
飛行日数 58日 54日
飛行時間 240時間10分 165時間15分 100時間45分 149時間40分

3.3. 4 あわやの事故が相次ぐ

1997年10月11日、第37次隊がS16付近でピラタス機が飛行中、主翼が雪面に接触、操縦席左ドアが落下する事故が起き、急ぎ昭和基地に帰投しました。調査の結果、機体に座屈が見られたため、その後の飛行は中止となりました。

第42次隊の夏にも大きな事故が起きてしまいました。2001年2月7日、パドルの発達した海氷上をミニブルドーザがピラタス機を牽引中、ピラタス機の右主脚が氷を踏み抜き移動できなくなりました。牽引ロープを切り離し、機体の右主脚を持ち上げようとしたミニブルが水没してしまいました。さらにそれを助けようと近づいた雪上車(SM301)も踏み抜き水没しました。幸いにも、ピラタス機は、「しらせ」搭載の大型ヘリコプターで吊り下げ救出することができました。人的損害はなかったものの、夏期の海氷の恐ろしさを見せつけられました。

4.陸上滑走路

4.1 昭和基地の幻の陸上滑走路

昭和基地付近の海氷上滑走路は、氷厚は十分厚いものの、夏季の日射によるパドルがあちこちにでき、運航の妨げになっています。そのため、昭和基地のある東オングル島に陸上滑走路の必要性が要望されていました。実現するためには、長さ650m、幅50mの敷地を平坦にする必要があります。第21次隊などが敷地予定地の調査を行いました。しかし、起伏のある堅い岩盤を削るには相当な労力と機材が必要になります。さらに、1998年1月14日には、「環境保護に関する南極条約議定書」が発効され、大規模な土木工事を行うには環境アセスメントが必要とされ、各国の同意が得られるか不明で、実現は相当難しいと思われます。

4.2 未完成のまま使用を断念したフランスの陸上滑走路

フランスのデュモン・ディルビル基地では、基地の横にある3つの小島を爆破・破砕して平坦に繋いで長さ1,100mの滑走路建設工事を1987年から始めました。これらの島にはペンギンコロニーがあり、生物学者などから非難の声が上がっていました。建設終了間際の1994年1月に激しい波浪に見舞われ、滑走路が砕け落ち、使用不可能になりました。この建設に使った費用は、約2億2000万円ほど。再建は諦め、今は内陸基地向けの物資置き場などとして使われています(5,6)。

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図5 フランス、デュモン・ディルビル基地の陸上滑走路(6)

一方、英国のロゼラ基地では、石を敷き詰めて長さ900mの陸上滑走路を造成し、カナダデハビランド社のDASH-7やツインオッター機を夏に運用しています。そのほか、南極半島先端のキングジョージ島にあるフレイ基地(チリ)と、グラハムランドのマランビオ基地(アルゼンチン)には、C130輸送機が車輪で離発着できる長さ約1,300mの陸上滑走路があり、観測隊関係者だけでなく、民間のチャーター便なども使用できます。

5.小型ヘリコプターの活用

第31次隊では、セールロンダーネ山地に初めて観測隊がチャーターした小型ヘリコプター(AS350)を2機持ち込み、地学調査に使用しました。日本からセールロンダーネ山地に近いブライド湾までは、「しらせ」の露天甲板に幌で覆った胴体部分を載せて運び、現地到着後、メーンローターとテールローターを組み立てました。2機の総飛行時間は151時間42分におよび、77か所に着陸して地学調査を行い、野外調査での有効性を実証しました。運航責任者は、小型ヘリコプターの野外調査への活用に取り組んできた白石和行あすか基地越冬隊長が務めました。

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図6 あすか基地の小型ヘリコプター(第31次夏隊)

第40次隊では、2機のヘリコプター(AS355)をアムンセン湾方面での露岩調査に持ち込みましたが、最大58.6m/sの強風に見舞われ機体の一部が損傷し、調査途中で中断しなければなりませんでした。
第43次隊のヘリコプターは、みずほ高原での人工地震探査などで活躍しました。第46次隊では川崎BK117機を導入し、小型ヘリの運用が観測隊に定着するようになりました。

6.DROMLAN(東南極航空網)の利用

東南極に基地を持つ11か国が共同で運航するDROMLANの飛行が2002年頃から始まりました。南アフリカのケープタウンからロシアのノボラザレフスカヤ基地近傍の氷上滑走路までジェット機で結ばれました。さらに、スキーを装着した小型機に乗り換えて、昭和基地やドームふじ基地に行くことができるようになりました。2000年12月11日、第42次隊がドームふじ基地で浅層掘削を行っているとき、ロシアのノボラザレフスカヤ基地を飛び立ったバスラーターボ機(DC-3のレシプロエンジンをターボジェットに換装した機体)が飛来し、離発着試験を行いました。3,800mの高所およびやわらかい雪での離発着可能性を確かめるために行ったものでした。

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図7 DROMLANの大型ジェット機とバスラー機(右)47次隊

第45次隊では6名が空路でケープタウン経由、ノボラザレフスカヤ基地に入り、ここから5名がドルニエ機に乗り換え航空中継拠点(ARP2)に到着しました。ここから前次越冬隊員とともに雪上車でドーム基地に到着しました。「しらせ」を利用した本体とは別行動の航空機を利用した日本隊にとっては画期的なオペレーションのはじまりでした。

7.チャーター機を使った小型航空機による共同観測

第47次隊の2006年1月5日から29日までの間、大陸のS17地点にドイツのアルフレッド・ウェゲナー極地海洋研究所所有のドルニエ機が滞在し、航空機搭載の各種機器を使った地球物理学的観測を行いました。また、緊急事態対応として、バスラーターボBT-67機も待機しました。このオペレーションのため、ジャッキアップ架台方式の食堂棟と発電棟を建設し、航空拠点として整備を行いました。この観測は、48次隊でも行われ、小型航空機の利用は、チャーター機の時代にシフトしました。それに伴い、長年続けてきた日本独自の越冬による小型航空機の利用は、第45次隊を最後に幕を閉じました。

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図8 S17航空拠点のドルニエ機とバスラー機を前にした白石和行第47次隊長

8.文献

(1) 文部省(昭和57):「南極観測25年史」
(2) 南極地域観測統合推進本部(1969):日本南極地域観測隊第10次夏隊報告 P79-90
(3) 南極地域観測統合推進本部(1971):日本南極地域観測隊第11次隊報告 p297-326
(4) 南極地域観測統合推進本部(1972):日本南極地域観測隊第12次隊報告 p13-34
(5) https://www.newscientist.com/article/mg14119140-800-waves-smash-antarctic-airstrip/
(6) http://www.gdargaud.net/Antarctica/Glossary.html
(7) 文部科学省(平成19年):「南極観測50年史」

石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール

国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。

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