シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」 第12回
- 2018.01.21
- 第12回 メルマガ
- シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」, 観測隊, 技術, 南極
内陸氷床上基地の高床式建物とその維持
-その1 雪による埋没との闘い-
国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二
1.はじめに
南緯60度以南の南極圏で通年越冬し観測活動を実施している基地は、現在43か所あります(2017年3月末)。そのほとんどは、南極大陸沿岸や近傍の島の露岩に位置し、大陸内部の雪面上にあるのは、ほんのひと握りに過ぎません。主なところでは、米国が運用するアムンセン・スコット南極点基地、ロシアのボストーク基地、仏・伊共同運用のコンコルディア基地などです。これらの基地は、沿岸から1,000km以上の距離があり、補給物資の輸送に多くの労力と費用がかかります。いっぽう、沿岸棚氷の雪面上で基地を維持しているのは、英国のハリーⅥ基地とドイツのノイマイヤーⅢ基地です。棚氷上の基地は、内陸基地と比較して気温は穏やかですが、冬にはブリザードなどの強風に見舞われ、年間で1mを超す積雪があります。さらに、棚氷は海に向かってじわりじわりと動いているので、基地を移動しなければいずれ海に没してしまいます。このようなことから、内陸基地よりも過酷な条件であると言えます。
日本の観測隊は、みずほ基地、あすか基地、ドームふじ基地の3か所でかつて内陸基地の運営を行っていましたが、現在は休止しています。いずれも雪に埋没し建物の中で生活するには危険な状態です。3基地の中で、今回のテーマである高床式を採用したのは、あすか基地だけです。みずほ基地とドームふじ基地の建物は、通常のものでした。
内陸基地を維持することの困難さは、第一に物資の輸送、特に燃料輸送に膨大な労力と費用がかかること、第二に何も手立てをしなければ建物が雪に埋没することです。今回は、各国基地の高床式建物の変遷をたどり、その維持のためにどんな対処を施してきたのかについて紹介したいと思います。次回は、雪の埋没から逃れるために、高床式建物にさまざまな方式を組み込んだ各国のアイデアを紹介します。
南緯60度以南の南極圏で通年越冬し観測活動を実施している基地は、現在43か所あります(2017年3月末)。そのほとんどは、南極大陸沿岸や近傍の島の露岩に位置し、大陸内部の雪面上にあるのは、ほんのひと握りに過ぎません。主なところでは、米国が運用するアムンセン・スコット南極点基地、ロシアのボストーク基地、仏・伊共同運用のコンコルディア基地などです。これらの基地は、沿岸から1,000km以上の距離があり、補給物資の輸送に多くの労力と費用がかかります。いっぽう、沿岸棚氷の雪面上で基地を維持しているのは、英国のハリーⅥ基地とドイツのノイマイヤーⅢ基地です。棚氷上の基地は、内陸基地と比較して気温は穏やかですが、冬にはブリザードなどの強風に見舞われ、年間で1mを超す積雪があります。さらに、棚氷は海に向かってじわりじわりと動いているので、基地を移動しなければいずれ海に没してしまいます。このようなことから、内陸基地よりも過酷な条件であると言えます。
日本の観測隊は、みずほ基地、あすか基地、ドームふじ基地の3か所でかつて内陸基地の運営を行っていましたが、現在は休止しています。いずれも雪に埋没し建物の中で生活するには危険な状態です。3基地の中で、今回のテーマである高床式を採用したのは、あすか基地だけです。みずほ基地とドームふじ基地の建物は、通常のものでした。
内陸基地を維持することの困難さは、第一に物資の輸送、特に燃料輸送に膨大な労力と費用がかかること、第二に何も手立てをしなければ建物が雪に埋没することです。今回は、各国基地の高床式建物の変遷をたどり、その維持のためにどんな対処を施してきたのかについて紹介したいと思います。次回は、雪の埋没から逃れるために、高床式建物にさまざまな方式を組み込んだ各国のアイデアを紹介します。
2.ケーシー基地(オーストラリア)
現在の基地建物は、この付近でも地形的に高い所に建てられていて、雪の吹きだまりで苦労することはないようです。1988年に16個の建物で運用を開始しました。この基地の北2kmのクラーク半島には、氷漬けになった旧ウィルクス(Wilkes)基地が残っています(図1)。この基地は、元々米国が国際地球観測年(IGY)のために1957年1月29日に米国の7番目の基地として開設したものでした。当時は冷戦の時代で、ソ連の南極行動を睨みながら、南磁極(south geomagnetic pole)に近いという理由でこの場所に決めたようです(文献1)。
図1 旧ウィルクス基地、オールド・ケーシー基地と現ケーシー基地
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11,000トンの物資と100人の海軍船員を投入し、16日間で基地を作り上げ、科学者を含め24人が越冬しました。そして約2年後の1959年2月7日、オーストラリアに引き渡しました。建物のある所は、地形的に窪んでいて雪が溜まりやすく、基地建物は雪に埋もれてしまいました。さらに火災に逢ったため、ここから南に約2km離れたBailey半島に”Respat”(Replacement Station)と称する新基地建設を1964年から始めました。新基地の第一目標は、とにかく雪に埋まらないことで、旧ウィルクス基地の二の舞は決して踏まないというものでした。因みに、筆者は2006年に旧ウィルクス基地を訪れたことがあります。氷漬けになった建物と、アンテナや観測機器が当時のままの姿で残っていて空しい姿を晒していました(図2)。ここを撤去するには相当な労力と費用がかかると思われます(文献2)。
図2 旧ウィルクス基地 2006年3月筆者撮影
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さて、1969年2月にオープンした旧ケーシー基地の建物ですが、高床式でトンネルのような構造物です。地表から3mの高さまで足場パイプを組んで、その上に亜鉛メッキを施した波状(コルゲート)鉄板製の13個の建物を地形に合わせて配置しています(図3)。風上には半円形の通路を配置し(図4)、強風が建物下部を吹き抜けて、雪の吹きだまりができないようにしています。基地設備が一つの建物に収まっているため、悪天候時でも厳しい自然に身を晒すことなく、すべてのことが室内できるのです。しかし、海洋の飛沫を含んだ風がトンネルに吹き付け錆が発生し、建物内部の熱損失も大きなものでした。また、長期間トンネル内で暮らす越冬隊員のイライラと非生産性も問題になりました(文献4)。この建物は、20年間の運用で幕を閉じ、1993年までにすべて持ち帰りました。
図3 オールド・ケーシー基地の高床式建物。図の右側が風上(豪州南極局提供)
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図4 基地の断面図 風上側が半円形の通路、足場パイプの高床式構造(文献3)
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外国の文献を読むと、この建物が高床式建物の始まりだとされています。しかし、日本隊が昭和基地に高床式建物を最初に導入したのは、第8次隊の観測棟(図5)です。使用始めが1967年ですから、オールド・ケーシーより2年ほど早かったと思われます。その当時、オールド・ケーシー基地の建物を日本の建築関係者は知っていたのかどうかはわかりませんが、日本隊は世界の最先端の工夫をしていたことは確かなようです(文献5)。
図5 第8次隊が昭和基地に建設した高床式の観測棟
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3.ノイマイヤー基地とフィルヒナー基地(ドイツ)
オールド・ケーシー基地が閉鎖まで数年を残して越冬している頃、ドイツは、大陸の反対側にあるウェッデル海の南にあるロンネ棚氷に越冬基地を建設しようとしていました。1980/81年に砕氷船「Polarsirkel」号で南緯77度を目指して進みましたが、海氷状況が悪く、到達できませんでした。代替地として選んだのが南緯70度のAtka湾の棚氷でした(図6)。ここに、鉄製円筒状の建物(長さ50m×高さ8m)2個を作り、内部に実験室、居室、設営設備を収納し、3月から越冬を開始しました(文献6)。これがノイマイヤー基地です。さらに、翌1981/82年には、年間積雪量50cm、氷の移動速度が年間1kmもあるフィルヒナー・ロンネ棚氷上に12人収容の夏基地を建設しました。これは、鉄製の柱の上に居住施設を載せたものです。最初は、雪面から3~4mの高さまで床を持ち上げ、2~3年毎に床を雪面までウインチとケーブルを使って引き下げ、約1mの長さの柱を延長させ、再び床を新しい高さまで引き上げるというものでした。この作業に3~4日を要しました。ジャッキアップ式という新しい発想の建造物です(図7)。しかし、1998年10月13日に捕らえた人工衛星の画像で、基地を乗せた棚氷の一部が大氷山となって分離したことがわかりました。幸い建物に人はいませんでした。分離した氷山は、A-38Bと名付けられました。ドイツは、急遽砕氷船の行動を変更して、この氷山から建物を解体し持ち帰ることにしました。7人の技術者とコックと医者を飛行機で送り込み、120トンの物資と30トン以上の燃料を雪上車と橇で輸送し、船に積み込みしました。1999年2月11日までにこのオペレーションは完了しました。南極の環境保全に配慮した迅速な行動でした(文献7)。いっぽうノイマイヤー基地は、厚さ280mの棚氷上にあり、年間150mのスピードで海に向かって移動しています。しかも、年間の積雪量は80~100cmと多く、高床式でない通常の建物であったため埋没は避けられず、その後、埋まらない構造物の研究を始めることになります。
図6 フィルヒナー基地(F)とノイマイヤー基地(N)。破線は船の航跡(1980-81年)
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図7 フィルヒナー基地の高床式建物(AWI提供)
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4.ハリー基地(英国)
HalleyⅠ基地は、Brunt棚氷の雪面上に1955/56年に建設されました(図8)。主屋棟は40m×8.5m×5m(高さ)と大きな建物で、中にある食堂は20人を収容することができます。その他の7つの小さな建物とは雪洞で連結してあります。しかし、積雪の加重で建物が変形し居住できなくなったため、10年後の1967/68年に放棄しました。このとき建物は雪面から14mも下になっていました。基地のある場所は、平均気温こそ-19℃と比較的穏やかですが、積雪は1.5m/年にも達し、一年のうち180日間は地吹雪が吹き荒れる強風地帯なのです。氷厚は150m、海に向かって850m/年の速度で移動しています。
図8 HalleyⅠ基地の埋まった建物(1956/57)(BAS提供)
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二度目の建て替えとなるHalleyⅢは、1972/73年に建設されました。今度は、波状(コルゲート)鉄板を連結し、高さ5.5m、幅6.2mの大きなチューブを建設しました(図9)。総延長は85mにもなりました。この中にプレファブ式建物を組み立てたのです。この方式は、これまでに最も成功したものでしたが、12年間使用後にはチューブが変形し、1984年には放棄しなければなりませんでした。その後、海の藻屑となりました。
図9 HalleyⅢの建設時のチューブ(1973年)と棚氷先端まで移動し海に没する寸前の基地(1993年)(BAS提供)
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1986年、建物を雪面上に保つため、床をジャッキアップするシステムの可能性調査が始まりました。ジャッキアップしたことにより建物の埋没はなくなりましたが、強風による建物の振動と熱損失による燃料消費量の増加が問題でした。1988/89に工事を開始し、1992年からこの建物で越冬が始まりました。この建物をHalleyⅤと名付けました(図10)。最大の建物は、60m×15m×3mの居住棟です。他の2つの建物は、それぞれ長さ10mと12mで互いに300m離して正3角形に配置しました。
図10 HalleyⅤの高床式建物(BAS提供)
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床のかさ上げは、毎年行いました。1脚に2人を配置し、耐加重50トンのジャッキを人力で操作します。居住棟には12脚あり、1日に400mmづつ上げて5日間かかります。この建物の長辺方向は卓越風向に合わせてありました。そのため、風下に大量のスノードリフトが付着しました。こドリフトにより、床は東側に200mm傾斜し、柱の垂直性を保つのが困難となりました。この建物の7年間の使用経験により、建物の下に橇を取り付け移動させる方式の研究が始まりました(文献8)。
ハリー基地での経験は、ある基地で成功したシステムが、他の基地で成功するとは限らず、現場の条件に考慮した独自の方法を設計する必要があることを示しました。
5.アムンセン・スコット南極点基地
最初の建物は、国際地球観測年(IGY)のために米国海軍の隊員18人で、1956/57年に建設しました。雪で埋まることを想定し、20人収容の2階建ての木造建物を作りましたが、18年間も使われ続け1975年にようやく放棄されました。ハリー基地に較べると南極点の気象条件はそれほど過酷ではありません。標高は2,835mで空気は薄く、年平均気温は-49℃と人間が生活するには厳しい環境ですが、風が弱く積雪も年20cmと少ないので、建物にとっては良い環境です。とは言っても、建物は徐々に埋没してしまいました。屋根の上には8mの雪が積もりました。この建物に代わって新しく導入されたのは、直径50m、高さ16mの三角形の部材を組み合わせた半球状のアルミ製ドームです(図11)。
図11 建設中の南極点基地のドーム
http://www.southpolestation.com |
1971/72年に基礎リングを設置しました。除雪機で円形の溝を堀り、基礎板を敷き、金属フレームを組み上げます。翌1973年1月4日までにすべてのアルミ製パネルの取り付けを終了させ完成です。断熱性を良くするため窓はありません。この中に実験室、事務室、食堂、寝室などの建物を収納しました。外部との縁を絶ち切り、風と雪加重の影響から建物を解放した画期的な構造物でした。また、発電室、燃料貯蔵室、機械作業室、ガレージなどは、14m×24mのコルゲート鉄板アーチの中に納めました(図12)。1975年から使用され、設計では10~15年の寿命と見積もられていましたが、結果的には35年間使用されました。しかし、年月が経過するとともに、偏心的な雪加重がドームの基礎部に掛かり、構造上の完全性が損なわれたため、1989/90のシーズンには、パネルの結節点やベースリングの梁などの修復が必要でした。筆者が訪れた1997年12月には、ドームの半分ほどまで埋まっていました。ドームの入口を確保するのに、一人の女性が専従で毎日除雪を行っていました(文献9)。このドームは、2010年に解体されました。現在はジャッキアップ機構を備えた2階建ての新高床式建物が居住区画となっています。
図12 発電機などを収納するコルゲート鉄板アーチ
http://www.southpolestation.com |
6.あすか基地(日本)
あすか基地は、昭和基地、みずほ基地に次いで日本隊が作った3番目の基地です。昭和基地から南西に直線で約642kmはなれた氷床上にあり、「しらせ」が停泊するブライド湾から120kmの位置にあります。ここに高床式の建物3棟と通路棟や作業棟を建設し、1987年から1991年までの5年間越冬運用しました。平均風速が12.6m/sという強風地帯で、越冬隊員は建物の入り口を確保するため、除雪に明け暮れました。5年を過ぎた頃にはすべての建物が屋根まで埋まり、高床式の効果を発揮することはできませんでした(図13)。
図13 埋没したあすか基地の高床式建物(1987年)
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次回は、各国がどのようにして内陸基地を維持しているのか、ジャッキアップや建物移動の方法を詳しく見ていきます。
文献
文献1 Wilkes Station, Wikipedia
文献2 石沢賢二・北川弘光(2007): オーロラ・オーストラリスによる輸送とオーストラリアのケーシー基地及びマッコーリー島基地の施設 南極資料, Vol.51, NO.2, 209-240
文献3 Incoll Phil (1990): The Influence of Architectural Theory on the Design of Australian Antarctic Stations, Australian Construction Services
文献4 William D. Brooks, AIA (2000): The Rationale for Above-Surface Facilities. Civil Engineering Dec. 2000
文献5 半貫敏夫(2017): スノードリフトとの付き合い 『南極建築1957-2016』LIXIL出版
文献6 Die Filchner-Schelfeis –Expedition 1980/1981, Berichte zusammengestellt von
Heinz Kohnen, Expeditiosleiter (The Filchner Ice-Shelf-Expedition Reports
Compiled by Heinz Kohnen, expedition leader), Berichte zur Polarforschung Nr. 1/April 1982
文献7 Germany (1999): Removal and Clean up of Filchner Summer Base from Iceberg A-38B by the Alfred Wegener Institute for Polar and Marine Research. ⅩⅩⅢ ATCM/IP84
文献8 Blake M. David(1997): The Development of Structures for Halley Station in Antarctica. In Proceedings of the 5th International Symposium on Cold Region Development (ISCORD’97), Anchorage, Alaska, American Society of Civil Engineers, New York,4-10 May 1997,57-60
文献9 石沢賢二 (1998): マクマード基地、アムンゼン・スコット南極点基地およびスコット基地の設営活動,南極資料, VOL.42, No.2 196-225
石沢 賢二(いしざわ けんじ)プロフィール国立極地研究所極地工学研究グループ技術職員。同研究所事業部観測協力室で長年にわたり輸送、建築、発電、環境保全などの南極設営業務に携わる。秋田大学大学院鉱山学研究科修了。第19次隊から第53次隊まで、越冬隊に5回、夏隊に2回参加、第53次隊越冬隊長を務める。米国マクマード基地・南極点基地、オーストラリアのケーシー基地・マッコ-リー基地等で調査活動を行う。 |