シリーズ「南極観測隊エピソード」第2回

南極観測と朝日新聞その2

元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治

白瀬探検隊に対して国家はなんの支援もせず、大隈重信と朝日新聞の支援でやっと実現できたことは前回記した。白瀬隊の希望していた軍艦「磐城」の払い下げを海軍から断られるなど、いろいろとあって、1910年8月の出発予定を大幅に遅らせ、11月に「開南丸」でようやく南極へ向けて、出航できたのである。
その間、朝日新聞社との間も決してスムーズではなく、ギクシャクしたところが何度かあった。

一時は朝日新聞も「手を引く」と言ったときも
朝日新聞社は大阪で生まれ、当時、東京に進出してきて間もないころだった。東京・朝日の幹部だった杉村楚人冠が白瀬隊の南極探検計画に惚れ込んで、支援を提案したのに対し、もちろん大阪・朝日も最初は乗ったのだが、白瀬隊の計画がうまく進まないのをみて、まず大阪側から疑問の声が上がったようだ。
とくに、大阪には村山家、上野家という社主家がいて、当時は上野精一氏が社長を務めていたが、上野社長の見方が厳しく、船が軍艦をあきらめて小さな第二報効丸になったことや学術部門の担当者3人が辞退したことなどを指摘して、計画の縮小は「義捐金を寄せた読者をあざむくことになる」と主張した。
そうした社長の危惧もあって、読者からの義捐金4万8279円66銭を大隈重信後援会長に引き渡したことを報じた同年10月20日の「南極探検と本社」と題する社告で、「以後、朝日新聞社と探検隊・後援会との関係は消滅する」という、いわば「これを持って手を引く」という宣言までしているのだ。
恐らく、朝日新聞社としては、白瀬探検隊が失敗に終わるだけならともかく、南極で遭難でもしたら、朝日新聞社の責任まで問われかねないと心配したのかもしれない。
ところが、その後、第二報効丸が石川島造船所で改装され、東郷平八郎大将から「開南丸」と命名されたことや、日比谷公園で盛大な壮行会が開かれたこともあって、やや態度を軟化させ、開南丸の出航の日を待って載せた社告には、こうあった。
「南極探検隊は江湖諸君の多大なる援助の下にいよいよ11月29日をもって遠征の途に上れり。……今や白瀬隊長ならびに隊員が公約を重んじつつ一葉の軽舟を放って万里の長風に乗せしを見て,我社はその熱意を壮として深くその成功を祈るとともに、義捐金諸君もまた満足を持って其行を送られしならんと信ず」
ただ、そのあとに、ご丁寧にもこう付け加えられている。「然れども多数義捐金諸君中あるいは我社の処置に平らかならざる人ありて万一義金の還付を要求せられんか、我社は徳義上弁償の責に任ずべし。乞う之を諒せよ」
しかし、払い戻しを要求してきた義捐金拠出者は一人もいなかった。

白瀬隊その時は上陸できず、翌年再起。朝日新聞も支援復活
開南丸は一路南下をつづけ、翌年の1911年2月、ニュージーランドのウエリントン港に着き、物資を補給して南極大陸に向かった。朝日新聞は探検隊との関係を断ったとはいえ、支援する姿勢は変えず、3月31日の社説で「白瀬氏の勇気と熱心は吾人の信じて疑わざりし所にして、……切にその前途多福ならんことを希望してやまざりき」と、成功を期待した。
しかし、開南丸は南緯74度16分まで到達したものの、氷に阻まれて南極大陸まで到達できず、5月1日オーストラリアのシドニー港に引き返した。
この報に接して朝日新聞は、5月4日の社説で、探検隊の失敗は準備不足が原因だが、不完全な小船で南極に挑んだ行為は「日本歴史有りてより初めての快挙」であり、「これらの勇壮なる行為は国民を覚醒し,懦夫もまた奮起するに至るべきもの」とたたえ、「白瀬氏はこの失敗をもって志を挫かず、さらに第二回の南進を企てつつ有りという、聞くだに勇ましきことなり」と激励した。
6月、開南丸の野村直吉船長ら2人が、さらなる資金集めのため、別の便で帰国したのを、杉村楚人冠が長崎まで出迎え、神戸まで同船に乗って、探検隊の様子を詳しく取材し、連日紙面に載せた。
楚人冠は、「探検隊再挙の企てには是非とも学術部の組織を完備して、この探検隊を学術的たらしむるの覚悟なかるべからず。白瀬隊を見殺しにするは断じて非、これを天下の笑殺に委するは更に断じて非なり」と、読者に訴えた。
帰国した船長らの報告を受けた後援会が、各地で講演会を開くなどして資金集めに動き、学術部門の担当者、映画技師などの新隊員も加えて、第二次計画を立て、シドニーに戻って11月19日、開南丸は再び南極に向かった。
今度は幸運にも氷海を突破して、翌1912年1月27日、白瀬隊は南極の鯨湾に上陸。白瀬隊長以下5人の突撃隊が犬ぞりとともに南下、南緯80.5度のところまで行って、そこを「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名して引き返したことは、よく知られている通りである。
その際、鯨湾に入る開南丸と、南極点に到達して戻ってきたアムンゼン隊のフラム号がすれ違ったことは、両隊ともはっきり記録に残している。
アムンゼンとスコットが南極点一番乗り競争をやったその同じ年に、南極点まではまだ1000キロもあるところだったとはいえ、誰一人遭難者も出さずに踏破した白瀬隊の足跡は、当時の4番目の南進記録だといわれ、南極探検の歴史に燦然と輝く成果だった。
開南丸は6月にその成果を持って日本に帰国したが、その間、朝日新聞は「南極探検の成果」「武田学士南極土産」「極地上陸の後」といった記事を掲載した。
開南丸が東京・芝浦港に着いた時の熱狂的な歓迎ぶりも、当時の新聞に大きく載っている。とくに朝日新聞は、帰国直後の6月23日から5回の連載で「学術上の南極」という記事を独占的に掲載して、「学術上の当初の目的を達した」と結論づけている。

柴田鉄治(しばた てつじ)のプロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。

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