韓国からのオブザーバーと同室で南極に向かう 柴田鉄治(元朝日新聞社会部記者) 私が新聞社を定年退社し、関連企業、さらには大学の客員教授も終えた70歳のとき、「もう一度、南極へ行こう」と思い立ち、40年ぶりの南極行が実現した話は前回までに記した。7次隊から47次隊と、40年の間に記事の送り方が大きく変わったため、45次越冬隊に同行した中山由美記者と武田剛カメラマンの指導を受けて、カメラもパソコンも
70歳で南極・昭和基地を再訪 柴田鉄治(元朝日新聞社会部記者) 私は、30歳のとき、第7次南極観測隊に同行取材し、その2年後、第9次観測隊の「極点旅行隊」(村山雅美隊長)を取材するため、米国に頼んで南極点の米国基地に飛行機で先回りし、到着の様子を記事にしたことは、前号までに記した。 この2回の南極行で、ペンギンや氷山、白夜といった大自然の素晴らしさだけでなく、南極条約によって国境もなければ軍事基
南極観測と朝日新聞その17 極点旅行隊到着シーンの再現 柴田鉄治(元朝日新聞社会部記者) 村山雅美隊長が旅行隊の南極点到着のシーンを、翌日、取り直すことにした理由の第一は、NHKの隈部記者に対する同情の気持ちからだったが、もう一つ、到着のシーンが「旅行隊の記録」から欠けてしまったら困るという、旅行隊としての事情もあった。 翌日、米国隊員たちも協力してくれて、南極点付近は前日と同じようににぎやか
南極観測と朝日新聞その16 アムンセン・スコット基地で極点旅行隊を出迎える 柴田鉄治(元朝日新聞社会部記者) 第9次越冬隊の村山雅美隊長ら11人の「極点旅行隊」に、朝日新聞の高木八太郎記者は村山隊長の意向で同行できなくなったが、南極点で私が旅行隊を出迎えるという計画のほうは、順調に進んでいた。 米国の駐日大使館に「極点旅行隊の南極点到達を報道するため、朝日新聞社の柴田鉄
南極観測と朝日新聞その15 8次夏隊と9次越冬隊のこと 柴田 鉄治(元朝日新聞社会部記者) 私が同行した第7次観測隊の隊長だった村山雅美氏は、『ミスター南極観測』とも呼ばれていた人だ。日本でも有数な山男で、日本山岳会のマナスル登山隊に参加して登頂し、帰国してすぐ第1次南極観測隊に合流した人だ。 本番の第2次越冬隊長に決まっていたのだが、不運の2次隊は観測船「宗谷」が氷にとざれて昭和基地に近づけず、
南極観測と朝日新聞その14 7次隊の帰途にあったこと、その3 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 第7次観測隊が昭和基地の再建を立派に成し遂げ、帰途に就いたとき、ペンギン・ルッカリー(生息地)を見学したことを「その1」とし、ソ連のマラジョウジナヤ基地と「オビ号」を見学したことを「その2」として前号までにその概要を記した。 実は、もう一つ、その3があったのだ。ソ連基地と「オビ号」を訪れて気をよくした私
南極観測と朝日新聞その13 7次隊の帰途にあったこと、その2 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 昭和基地の再建を100%成し遂げ、帰途に就いた最初の隊員たちへのご褒美は、アデリー・ペンギンのルッカリー(生息地)見学だった。その2は、昭和基地の東隣り、300キロほど離れたところにあるソ連のマラジョージナヤ基地への訪問だった。 外洋に出た観測船「ふじ」がソ連基地の沖合に近づいたところで、「訪問したい
南極観測と朝日新聞その12 7次隊の帰途にあったこと、その1 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 私が初めて南極観測に参加した第7次隊は、4年ぶりに基地を再建し、極点旅行用の雪上車も荷揚げできて、100点満点の出来だった。それに対する隊長や艦長からの「ご褒美」というわけではないだろうが、任務を終えて帰途に就いたときに付録のような部分があった。私は、その付録みたいな部分にひときわ感動したので、3回に分
南極観測と朝日新聞その11 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 私が同行記者として参加した再開第1次、7次隊の報告を続ける。新しい砕氷船「ふじ」が昭和基地から約50キロの氷盤に接岸したとき、500羽ほどのペンギンの出迎えを受けたところまで前号で記した。その後の7次隊の様子を続けたい。 昭和基地は無事、戸をこじ開けて入る 接岸した「ふじ」から昭和基地へ1番機が飛んだ。シコルスキー61型の大型ヘリに乗
南極観測と朝日新聞その10 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 砕氷船「ふじ」を新造して、4年間の空白を経て再開された日本の南極観測事業は、「宗谷」時代とはまったく変わった「新時代」の幕開けだった。ひと言でいえば、「学術探検」の時代から「科学観測」の時代に入ったのである。 その再開第1次の、7次隊の同行記者に選ばれた私を乗せて、「ふじ」は最初の寄港地、オーストラリアのフリーマントル港に着いたところまで