シリーズ「南極観測隊エピソード」第5回

南極観測と朝日新聞その5 幸運の1次隊、不運の2次隊

元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治

 日本の南極観測の産みの親、矢田喜美雄記者と早大山岳部が東大スキー山岳部の策謀によって南極に行けなくなった状況は、前回記した通りである。しかし、それは、あくまで裏の事情であって、国民は知らなかったことである。
 国民が知っている南極観測の実現までのストーリーは、朝日新聞の提案にまず学界が賛同し、政界・官界も乗って国家事業として行うことが決まり、国際的にも認められて、国際地球観測年(IGY)の事業に日本も参加することになったというものだ。

観測船は「宗谷」に、第1次観測隊は永田隊長ら53人

 準備段階で最も難題だったのは、観測船をどうするかということだった。新しく造る予算も時間もなく、いまある船を使うほかない。結局、北海道で灯台に燃料などを届けていた海上保安庁の「宗谷」を改装して観測船にすることに決まり、改装工事がぎりぎりに間に合った。
 第1次観測隊は、永田武隊長以下53人。全国から選考されたが、観測部門では東大、京大、北大の出身者が多く、設営部門では前回記したように東大スキー山岳部が中心になって編成された。
 朝日新聞社からは、報道担当として高木四郎記者、ほかにも「宗谷」に積み込まれたセスナ機『さちかぜ』、随伴船「海鷹丸」に積み込まれたヘリコプター『ペンギン号』はいずれも朝日新聞社機で、そのパイロットと整備員合計8人は全員、朝日新聞の航空部員だったのである。
 1956年11月8日、雨の中を南極に向かって出港する「宗谷」の見送りに来た人の波で東京・晴海埠頭はぎっしり埋まった。出港間際に、1人の婦人が隊員に1匹の子猫を渡して、「可愛がってくださいね」と言って去った。子猫はその後、隊長の名前をとって「タケシ」と名付けられ、船内の人気者になったという。
 前回記した南極観測の両雄、永田武隊長は送られる側の中心人物、矢田喜美雄氏は岸壁からそっと見送る側、と明暗がはっきり分かれた。しかし、矢田氏が密かに思っていたという「永田隊長を海に投げ込む」騒ぎも起こらず、万歳の声に送られて、「宗谷」は静かに東京港の岸壁を離れていった。

プリンスハラルド海岸は、最も接岸の難しい場所と言われていたが…

 「宗谷」は、まっすぐに南下して、まずシンガポールに寄港、そこからインド洋を横切ってアフリカ大陸の南端、ケープタウンで食糧や燃料を積み込み、一路、南極へ向かった。日本の基地として割り当てられていたプリンスハラルド海岸は、近づくのに最も厳しい地域だといわれており、砕氷力の弱い「宗谷」が乗り切れるかと心配されていたのに、するすると入って行ったのだ。
 その航路の選択や基地の候補地選びに、大活躍したのが『さちかぜ』と『ペンギン号』だったことはいうまでもない。
 基地の候補地に選ばれたオングル島まで、あと20キロと迫った地点で船を止め、1957年1月29日、オングル島で国旗を掲げて「昭和基地の開設式」をおこなった。1月29日はそれ以来、昭和基地の誕生日となっている。
 それから2月中旬に「宗谷」が帰途に就くまで、雪上車や犬ぞり隊による昼夜を分かたぬ輸送作戦が展開された。夏の南極は白夜で、夜中まで明るいから、徹夜の作業には向いている。
 建物の資材から食糧、燃料など、200トン余りの物資がオングル島に運び込まれた。昭和基地は南緯69度という位置は南極点から遠く離れたところではあるが。ちょうどオーロラ帯の真下にあって、観測基地としても申し分なく、それに何よりも陸上に基地を設営できただけでも幸運だった。
 1次隊は何が起こるか分からないから、と、1次隊は予備観測、2次隊が本観測としていたが、1次隊から越冬隊を基地に残すことができ、西堀越冬隊長ら11人の隊員を残して、「宗谷」は帰途に就いた。
 「往きはよいよい、帰りは恐い」という童謡があるが、まさにその通り、「宗谷」は帰途に氷に閉じ込められて動けなくなった。爆薬を仕掛けて氷を割ってみても、そんなことで航路が開けるわけがない。
 ところが、1次隊はどこまでも幸運だった。近くにいたソ連の砕氷船「オビ号」が助けに来てくれて、「宗谷」を先導して氷海の外まで連れ出してくれたのだ。当時は冷戦のさなか、日本はソ連と仲がよかったわけではなかったが、南極ではそんなことは関係ない。人間同士、みんな助け合うのは当然のことである。
 「宗谷」がソ連の「オビ号」に助けられたということが、またまた日本国民に「夢とロマン」を感じさせ、南国観測への熱い支援の気持ちを掻き立てた。

1次越冬隊に朝日新聞社から藤井記者と作間通信士

 1次越冬隊の11人は、それから1年間、昭和基地で生活を共にしたわけだが、そのなかに2人の朝日新聞社の社員がいた。設営担当の藤井恒男記者と通信担当の作間敏夫隊員である。
 藤井記者は、もともとは社会部の記者だが、航空部員として観測隊に参加し、越冬隊が成立したら越冬隊員に選ばれるよう密命を帯びていた人だ。越冬隊からの記事は、藤井記者がほとんど書いたもので、それを通信担当の作間隊員が日本に送っていたのである。
 作間隊員は、子猫のタケシの世話係もしており、作間隊員にすっかりなついたタケシは、翌年、作間隊員と一緒に日本に帰国している。
 藤井記者は、大変面白い人で、越冬を終えて帰国したあと、全国を講演して回ったが、「南極で立小便をすると、氷のつららができる」といった真っ赤なウソを平気で語って、聴衆を笑わせていた。

不運の2次隊は、往きの航路で氷に閉じ込められる

 1957年秋、いよいよ本観測の2次隊を乗せた「宗谷」が東京港を出て南極へ向かった。昭和基地では11人の越冬隊員が「宗谷」の到着を首を長くして待っていたが、「宗谷」は往きの航海で氷につかまってしまい、動けなくなった。
 ソ連の「オビ号」にまた助けもらうわけにもいかず、今度はアメリカに頼んで、砕氷船「バートンアイランド号」が救出にやってきた。しかし、「バートンアイランド号」でも割れないほど氷が厚く、昭和基地に近づくことはできなかった。
 2次隊の「宗谷」には、ビーバー機の「昭和号」が搭載され、その昭和号の活躍で越冬隊の11人は「宗谷」に収容できた。「宗谷」では、第2次越冬隊長に指名されていた村山雅美氏らが「1次隊が昭和基地に残してくれた食糧や燃料で、何とか1年間は過ごせるから越冬させてほしい」と訴えたが、そんな危険なことはできないという永田隊長の決断で、第2次越冬隊は中止と決まった。
 昭和基地には、カラフト犬15頭が置き去りにされ、2次隊が来たらすぐに犬が使えるようにと、鎖でしっかりつないできたことがアダとなり、犬係だった北村泰一隊員をはじめ、カラフト犬と1年間を共に暮らした越冬隊員らは心を痛めた。
 こうした隊員たちの心痛も知らずに、日本の国内では「カラフト犬を置き去りにするなんて許せない」と非難する愛犬家からの電話や投書が南極観測本部などに多数寄せられたようである。
 2次隊には、朝日新聞社から報道担当として疋田桂一郎記者とビーバー機「昭和号」のパイロットら4人の航空部員が派遣されていた。昭和号の活躍ぶりは大変なものであり、また、本観測とされていた第2次越冬隊を昭和基地に送り込むかどうかといった際どい状況を、朝日新聞きっての名文記者と言われていた疋田記者が丹念に報道し、その記事を読んで日本国民は一喜一憂していたのである。

柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。

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