シリーズ「南極観測隊エピソード」第13回
- 2018.07.24
- 第14回 メルマガ
- シリーズ「南極観測隊エピソード」, 観測隊, 南極
南極観測と朝日新聞その13 7次隊の帰途にあったこと、その2
元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治
昭和基地の再建を100%成し遂げ、帰途に就いた最初の隊員たちへのご褒美は、アデリー・ペンギンのルッカリー(生息地)見学だった。その2は、昭和基地の東隣り、300キロほど離れたところにあるソ連のマラジョージナヤ基地への訪問だった。
外洋に出た観測船「ふじ」がソ連基地の沖合に近づいたところで、「訪問したいが」と無線を入れると、「どうぞ、どうぞ」と嬉しい返事だ。すぐ大型ヘリを用意して、村山隊長、本多艦長、幹部隊員数人に報道記者3人が機上の人となった。
ソ連基地への飛行は、ほんのひと飛び、丘の上につくられたヘリポートに着陸すると、ソ連隊の隊長や幹部隊員ら数名が出迎えてくれた。「握手につぐ握手!」。当時は米ソ冷戦の最中、日本とソ連は必ずしも仲のいい国ではなかったが、そんなことは南極では関係ない。たちまち意気投合した。
言葉は通じなかったが、たちまち意気投合!
ただ、驚いたことに日本側にロシア語ができる人が一人もいなく、またソ連側にも日本語や英語ができる人がいなかったのだ。ところが、そんなことはまったく障害にもならない。南極観測隊員同士とあって、身振り手振りで話は十分、通じるのだ。
ソ連隊の建物は、雪の吹き溜まりができないよう、高架式の建物で、そのなかでもひときわ大きな建物に案内された。屋根の上に歓迎の意味の日本国旗、日の丸とソ連の国旗が掲げられていた。
その日の丸をよく見ると、真ん中の赤い丸がバカに大きいのだ。そこからは私の想像だが、日本国旗の用意がなく、「確か、白地に赤丸だった」と覚えていた人がいて、大急ぎで作ったのではあるまいか。そう思ったら、ひときわ嬉しく、ソ連隊の歓迎の気持ちがひしひしと伝わってきたような気がした。
基地内の主な観測装置や施設をざっと案内してくれたが、そこでも言葉はほとんどいらなかった。南極観測の中身にそれほどの違いはなく、昭和基地も7次隊の再建で一段と立派になり、ソ連隊と比べて見劣りもしなくなったからだ。
見学が終われば、歓迎宴だ。ウォッカの乾杯につぐ乾杯!美味しいウォッカにすっかり酔いが回り、「人類はみな兄弟だ」「南極っていいところだなあ」とつくづく思った。
外国の観測隊を迎えたソ連隊のほうも嬉しかったらしく、日本隊の出迎えのヘリが到着しても「まだ、いいではないか」と引き留められ、なかなか帰してくれなかった。
観測船「オビ号」も訪問、船員から9年前の「寄せ書き帳」を
帰途のヘリが舞い上がると、ソ連の基地に接岸していたソ連の観測船「オビ号」の姿が目に入った。「そうだ。オビ号も訪ねよう」とすぐ話がまとまって、翌日、「オビ号」に連絡を取って、またヘリを飛ばした。
「オビ号」といえば、9年前の1957年2月、昭和基地の建設を終えた観測船「宗谷」が氷に閉じ込められて動けなくなったとき、助けてくれた因縁のある船だ。当時、私はまだ学生で、新聞記者にもなっていなかったが、南極観測に魅せられた国民の一人として、「オビ号」の印象はひときわ強烈だった。
「オビ号」は、観測船「ふじ」と同じくらいの船で、大きさも砕氷力もそれほど違いはないが、船内に入ってみると、その印象はまるで違った。ひと言でいえば、「ふじ」は全艦「鉄のかたまり」のような鉄鋼船だが、「オビ号」は木造の部分も多く、そのうえ船室内には絵画などが飾られていて、優雅な客船のようなただ住まいなのだ。
船員食堂で開かれた歓迎宴で、船員の一人が「私の宝物なのです」と言いながら、大きな「寄せ書き帳」を持って現れた。9年前、「宗谷」を助けたときにも乗っていた船員で、「宗谷」の乗組員や観測隊員から「オビ号の皆さん、ありがとう」と日本語で書かれた寄せ書き帳を贈られたというのである。
その光景を眺めていた私は、思わず涙が出てくるほど感激した。南極条約が制定・発効され、「南極は国境もなければ、軍事基地もない、人類の理想境」になったことは知っていたが、「これが南極なのだ」とジーンときたのである。
ソ連基地に女性隊員、日本はどうする?
ソ連基地訪問の話題はもう一つある。ソ連基地に女性隊員がいたことを取り上げ、「日本隊もどうしたらよいと思うか」と7次の夏隊員全員に私がアンケート調査をしたのである。すると、意見は真っ二つに割れた。
半数は「女性隊員の参加は当然だ。越冬隊員は家族連れで来たらよい」というのである。ところが、あとの半数は「反対だ。せめて南極くらい、女性のいない平和な大陸であるべきだ」というのだ。
実は、このテーマは7次隊の出発前から、私が密かに準備していたテーマなのである。外国の観測隊でも同じような議論がなされ、同じように割れることを知っていた私は、この結果を記事にして日本に送った。本社のデスクからは「面白い記事だったね」と褒められたが……。
ところが、日本隊の現実はどうか。女性隊員が最初に参加したのは22年後の29次隊から、越冬隊員に初めて女性が参加したのは、32年後の39次隊からだ。ソ連隊に比べて、なんと遅れたことか。(以上)
柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。 |