シリーズ「南極観測隊エピソード」第17回

南極観測と朝日新聞その17 極点旅行隊到着シーンの再現

柴田鉄治元朝日新聞社会部記者

 村山雅美隊長が旅行隊の南極点到着のシーンを、翌日、取り直すことにした理由の第一は、NHKの隈部記者に対する同情の気持ちからだったが、もう一つ、到着のシーンが「旅行隊の記録」から欠けてしまったら困るという、旅行隊としての事情もあった。

 翌日、米国隊員たちも協力してくれて、南極点付近は前日と同じようににぎやかになった。前日にやった通りのことをもう一度やるだけだから、気楽なものである。すいすいと進み、到着シーンは隈部記者のカメラに無事収まった。

 ただ、参加したすべての隊員たちが感じていた「前日との違い」が一つあった。それは「緊張感」とでもいったらいいのだろうか、前日は歴史的な日だったが、翌日の再演シーンの日は、普通の日だったことだ。

隈部記者との「毎年1回」おごりの約束(?)

 取り直しの日にはすっかり元気になった隈部記者に、隊員たちはやさしく(?)声をかけ、「この秘密は絶対に守るから」と口々に約束していた。そして、その約束の輪のなかから、こんな言葉が飛び出した。「そうだ、約束を守る私たちに、毎年12月19日の到着の日に隈部さんから何かをおごってもらうことにしょう」と

 「賛成!賛成!」と、約束はたちまち成立したが、この「おごりの約束」は一度も実行されなかった。到着のシーンを撮り直ししたことと、その秘密を守るため「おごりの約束」をしたことがあまりにも有名になってしまったので、秘密の約束がそもそも成り立たなくなったからだ。

 さらに付言すれば、取り直しのシーンは緊張感に欠けていたため、公式の記録にも使われなかったことは言うまでもない。隈部記者の「高山病」が生み出した悲劇(いや喜劇かな?)は、南極点到着の話題をひときわ、にぎやかにしただけのことだったのだ。

クリスマスイブまで滞在、米国隊から大歓迎受ける

 日本の旅行隊は、クリスマスイブまで1週間余り滞在し、米国隊から大歓迎を受けた。ベッドの数も多くないので、日本の旅行隊に譲り、長椅子に寝た米隊員もいたほどだ。食事も「ご馳走攻め」でクリスマスイブには七面鳥の丸焼きまで出てきた。

 南極点に出迎えた記者3人組の連係プレーもよく、旅行隊員たちの座談会を企画して各社共通原稿にして送稿したことまであった。

 実は、これはあとで知ったことだが、NHKと共同通信社は、南極点到着の第一報をスクープしようと、秘かに策を練っていたそうである。私は、昭和基地にいる高木八太郎記者にすべてを任せ、「南極報道にはスク-プはない」という報道協定を守っていたのだから、気楽なものだった。

 旅行隊が南極点に滞在した1週間はみるまに過ぎて、昭和基地へ向かって旅立つ日が来た。帰途への出発の日も、セレモニーらしきものは星条旗がポツンと立った南極点で行われた。

 米国隊の隊員たちと別れの握手を繰り返し、記念品を交換したりしたあと、最後は手を振って別れたが、旅行隊の姿がかすんできたところで、私が大失敗をしたことに気がついた。

小林ドクターから預かった書類がなくなった!

 私たち記者団は、日本から出発するとき、旅行隊宛の手紙などを預かってきて、南極点で手渡した。別れの日には、隊員から家族あての手紙などを預かったことも、いうまでもない。

 私は、旅行隊が帰途に就く朝、出発する直前に小林昭次ドクターから「帰国したらここへ届けてください」と頼まれた書類を持って走り回っていたが、出発風景などを写真に撮るのに忙しく、その大事な書類を雪原のうえにひととき置いておいた。旅行隊を見送って、さて、とその書類を探したところ、見当たらないのだ。

 私が大声を出したら、ひとりの米隊員が「それなら日本隊に渡したよ」というではないか。米隊に「すぐ雪上車を出して、日本隊を追ってほしい」と頼んだら、「そんな危険なことはできないよ」とあっさり断られた。

 私の大失敗は、大事な書類を雪原の上に置いておいたことだ。隈部記者の高山病とは違って、私の失敗のほうが罪も重い。帰国後、9次隊の帰国を出迎えたとき、小林ドクターに深くお詫びをしたことはいうまでもない。(以下次号)

柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。

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