シリーズ「南極観測隊エピソード」第18回 南極観測と朝日新聞

70歳で南極・昭和基地を再訪

柴田鉄治元朝日新聞社会部記者

 私は、30歳のとき、第7次南極観測隊に同行取材し、その2年後、第9次観測隊の「極点旅行隊」(村山雅美隊長)を取材するため、米国に頼んで南極点の米国基地に飛行機で先回りし、到着の様子を記事にしたことは、前号までに記した。
 この2回の南極行で、ペンギンや氷山、白夜といった大自然の素晴らしさだけでなく、南極条約によって国境もなければ軍事基地もない、人類の共有財産ともいうべき平和の地になっている南極に、私はすっかり惚れ込んでしまった。
 それからざっと40年、新聞社を停年退社し、大学の客員教授も終えた70歳になったとき、「もう一度、南極へ行こう」と思い立ち、国立極地研究所に相談したところ、フリージャーナリストとして第47次観測隊への同行を認めてくれたのだ。

70歳で40年ぶりに南極を再訪

 朝日新聞の後輩で、私の大学客員教授の後任を務めてくれた佐柄木俊郎さんに南極再訪の話をしたら、「それは大ニュースですね」と言われた。私は「いや、ニュースではありませんよ。エベレストに登るとか、マラソンを走るとか、いうのならともかく、観測船に同乗させてもらっての同行取材は、体力の要る話ではありませんから」と応え、ちょっとした言い争いになった。
 佐柄木さんの言い分は、体力の話ではなく、「日本社会も高齢化を迎え、定年後の人生の送り方として、ニュース性がある」というのである。それに対して私の言い分は「40年ぶりの南極再訪という部分には、多少の話題性はあるかもしれないけど、ニュースなんていうものではありませんよ」と反論したわけだ。
 この言い争いの結果は、その後に起こった「事実」によって、私の負け、と出た。その事実というのは、70歳の私が南極観測に同行するということがニュースとして新聞などに報じられたからだ。
 朝日新聞には、第45次越冬隊に女性として初めて参加した中山由美記者が、第二社会面のトップに、温かみのある筆致で大きく載せてくれた。読売新聞も、毎日新聞も、社会面の「人もの」として、やはり温かみのある記事を書いてくれたのである。
 一般に新聞社は、他社の企画などにつては冷淡に扱い、時には無視することさえあるのに、他社のОB記者の南極再訪を温かく報じてくれたのは、やはり高齢者の生き方としてニュース性があったのだろうと思わざるを得なかった。

40年間で、記事の送り方に大きな違いが…

 40年間で南極観測でもいろいろな点が変わったが、なかでも大きく変わったのは、記事の送り方だ。7次隊の時は、電報用紙にカタカナで原稿を書き、船の通信士にもモールス信号で銚子の無線局に送ってもらったものである。
 記事のなかの漢字の説明をカタカナでするので、1本の記事でもものすごく長文となり、書き上げるのに徹夜したことさえあったほどだ。写真もカラーはダメで白黒だけ、それも自分で現像から焼き付けまでやって、電送器にかけるのだ。
 それが、47次隊では、宇宙中継がつながり、記事もカラー写真もパソコンで直接送れるようになったのである。そのため、私はカメラもパソコンも、どんなものを買ったらいいか、また、写真の撮り方から送り方まで、第45次越冬隊員の武田剛カメラマンンに相談して、出発前に教えてもらったのだ。 

第45次越冬隊の中山・武田両記者に教えを乞う

 出発前にいろいろと教えてもらった中山、武田両記者とは、3年前にちょっとした因縁があった。私が若い後輩記者と話していて、南極観測が朝日新聞の提唱で始まったことを知らないのに驚き、すぐ朝日新聞社の幹部に「南極観測にまた記者を送ったらどうか」と提案してみたのである。
 私の提案は、もちろん私と同じ夏隊だけの同行記者1人のつもりだったのに、提案を受けた秋山耿太郎・編集局長と田中拓二・編集局次長が、なんと記者とカメラマンの2人を、それも越冬隊に送るというのだから、私のほうが仰天してしまった。
 その2人が、越冬を終えて帰国し、今度は私の南極行の指導をしてくれた、というわけなのだ。2人とも私の提案で南極行が実現したことを知っていたので、とても親切にいろいろと教えてくれたというわけなのである。

縁は異なもの味なもの、なのだ。(以下次号)

柴田鉄治(しばた てつじ)プロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。

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