シリーズ「南極観測隊エピソード」第1回

南極観測と朝日新聞その1

元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治

南極観測と朝日新聞社との関係は、明治時代に朝日新聞社が白瀬南極探検隊を支援したことに始まる。
白瀬矗(しらせのぶ)という人は、秋田県金浦村(現・秋田県にかほ市)のお寺の住職の息子で、子どものころ寺子屋のお師匠さんからコロンブスやマゼランら探検家の話を聞いて、自分も探検家になろうと決心した。目指すは北極圏。そのため、熱いお茶やお湯は飲まない、寒くても火にあたらない、といった誓いを立て、それを生涯守ったという伝説が残っている。
北極圏のような寒いところへ行くのに、熱いお茶を飲まない、火にあたらないことが必要なはずはなく、恐らく意志の強さを物語る話として、そんな伝説が生まれたのだろう。
軍隊に入り、志願してカラフトで越冬するなど、北方での勤務を続け、軍隊で中尉にまで昇進する。白瀬中尉という呼び名が定着するのも、そのせいだ。
そして、軍隊を退役していよいよ北極点へ向かおうかとした矢先、米国のピアリーが北極点を制覇したというニュースが伝わり、目標を南極点に変える。

白瀬隊に国家は支援せず、大隈重信と朝日新聞が支援の手を

白瀬矗は、「南極探検をやりたい。支援してほしい」と当時の帝国議会に陳情した。議会は支援を決議してくれたが、政府は冷たく、一銭の援助も出そうとはしなかった。そのとき、支援の手を差し伸べたのは、早稲田大学の創設者として名高いあの大隈重信と朝日新聞社だったのだ。
朝日新聞社は大阪で創刊され、大阪で地歩を築いたうえで東京に進出してきてから間もないころで、東京ではまだ有力紙ともいえないような状況だった。しかし、杉村楚人冠(すぎむら そじんかん)のような優れた人物を擁していた強みで、白瀬探検隊に社をあげて支援の手を差し伸べたのである。
支援といっても新聞社から直接おカネを寄付したのではなく、紙面で白瀬隊の計画を詳しく紹介したうえで、読者から義援金を募集したのである。
紙面といっても、当時の新聞は現在の新聞とは違ってページ数も少なく、また、写真も極くわずか。見出しも一段見出しが大半で、活字だらけの紙面だった。一段見出しというのは、現在ではベタ記事と呼ばれ、小さなニュースやお知らせを報じるものになっているが、当時は、大きなニュースから小さなお知らせまで、一段見出しでならんでいるような編集の仕方だった。
もう一つ、現在の新聞との大きな違いは、ほとんどのすべての漢字にルビがふってあることだ。活字も現在の文字とは違って格段に小さいだけでなく、その活字にさらに小さなルビがふってあるのだから、小さな文字だらけという紙面である。

1910年(明治43年)7月2日の朝日新聞に、白瀬隊の恐らく第一報と思われる記事が載っている。4面の中段に一段見出しで「日本人の南極探検(上)」とあるから、翌日の(下)と最初から2回に分けて報じようとしたのだろう。
主見出しの「日本人の南極探検(上)」の脇に、▽白瀬中尉の壮挙▽英国探検隊と競争▽八月一日東京出発、と3本の脇見出しがならんでいる。
記事の書き出しは「極地の探検は近時非常な興味を以て迎えられ世界的事業として各国競争の有様なりしが一度ペアリー氏が北極を極めて帰国したる後は今や宇内の視線は悉く南極の一点に集中せらるるに至れり」と気宇雄大に説き起こし、英国のスコット隊につづいて日本でも白瀬隊が向かうことになったと報じているのだ。
記事はさらに▲白瀬中尉の経歴▲探検の目的▲南極探検日割と3本の記事をならべ、白瀬中尉の人物紹介、目的は「スコット隊より先に南極点に日本国旗を立てること」で、8月に東京を出発、オーストラリアに寄港して11月に南極マクマード湾に着き、翌年1月末に南極点に達するという日程を紹介している。

翌日に掲載された「日本人の南極探検(下)」は、脇見出しに△決死的の探検隊△日英の国際的競争とあり、さらに5本の記事がならんでいる。それらは▲探検船員の資格▲探検費用と設備▲日本に探検学者なし▲横山理学博士談▲朝野の応援、という見出しのもとに、探検費用は極めて少なく、帝国大学からは参加する学者が得られなかったが、国民の間には応援する人が多いことなどを報じている。
さらにその2日後に「南極探検発表演説会」の見出しのもと△未曾有の人気を集む、という記事が載っている。

読者からの義捐金4万8279円で「開南丸」を買う

そして、第一報から2週間後の7月15日に、異例の3段組みで「南極探検隊援助義金募集」の社告が載る。「我社は去五日を以て発表せる陸軍中尉白瀬○君の南極探検の壮挙に満腔の同情を表し同中尉一行の為に茲に遍く天下の義金を募る」として、一口五十銭以上、八月五日まで、領収書の代わりに紙上に広告する、とある。その社告の下に早くも義援金を寄せた人の名前と金額が報告されているのである。

その後、読者からの義援金は順調に集まっていって、朝日新聞社から白瀬隊に手渡された義援金は、総額4万8279円66銭になった。
ところが、肝心の白瀬隊のほうが南極に行く船として考えていた軍艦の払い下げを海軍から断られ、船が決まらないため出発予定の8月からもずるずると遅れていき、ようやく第二報効丸という小さな帆船を改装し東郷平八郎が「開南丸」と命名した船で、11月に南極に向かって出港したのである。
朝日新聞社が読者から集めた義援金4万8千円余で、ちょうど「開南丸」が買えたというのだから、読者の応援ぶりも相当なものだったといえよう。
白瀬探検隊の隊員は、新聞を通じて全国から公募し、応募した人の中から選んだという当時としては画期的ともいうべき斬新な組織だった。
その隊員らを乗せた「開南丸」が、東京・芝浦港を出発するとき、驚くほど大勢の人たちが見送りに集まったと当時の新聞が報じている。(以下次号)

柴田鉄治(しばた てつじ)のプロフィール

元朝日新聞社会部記者・論説委員・科学部長・社会部長・出版局長などを歴任。退職後、国際基督教大学客員教授。南極へは第7次隊、第47次隊に報道記者として同行。9次隊の極点旅行を南極点で取材。南極関係の著書に「世界中を南極にしよう」(集英社新書)「国境なき大陸、南極」(冨山房インターナショナル)「南極ってどんなところ?」(共著、朝日新聞社)「ニッポン南極観測隊」(共著、丸善)など多数。

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