シリーズ「極地からのメッセージ」 第14回
- 2019.04.21
- シリーズ連載 第17回 メルマガ
- シリーズ「極地からのメッセージ」
南極点の先にあるもの
南極冒険家 阿部雅龍
南極点、ロボットaiboと一緒に |
南極点へ向け、独り歩く。ソリが進まない。引くたびに100キロのソリが全て雪に潜る。こんな積雪の事例は聞いた事がない。一歩進む度にスキーが膝まで埋まる。南極で膝ラッセルなんて想定外だ。遅々としてペースは伸びない。このまま行くと食料が尽きる。自然の理不尽さに心から不条理を感じる。余裕で南極点まで着ける予定だった。そのプランが手のひらからこぼれていく。日本人初のルートで無補給単独で南極点にたどり着く。公言してきた目標。やりきれるはずの目標。スポンサーや個人から4ヶ月かけて必死で集めた実行資金の1500万円の万札が、白銀の世界に舞う幻覚が見える。僕みたいな凡人はどんなに努力してもムダなのか。
南極大陸への経由地南米チリ・プンタアレーナスに降り立ったのは2018年11月10日のことだ。4度目の南米。チリは22歳の時に南米自転車縦断して以来だ。
最も困難だったのは資金確保だ。従来予定したルートでの挑戦は諸事情により変更せざるを得なくなった。南極冒険をサポートするALEとの相談の結果、今遠征のルートが決定したのは7月。出発までの4ヶ月で全ての資金を確保する必要があった。南極行き飛行機を予約するために、すぐに前払い金として100万円を振り込んで欲しい、と連絡が来る。7月の時点で口座にあったのは108万円。そのうち100万円はスポンサーから南極遠征用に頂いたお金で、実際に僕に残されたのは明日も食べていけないような残金だけ。1月は現在、最後に北極点徒歩到達を達成した外国人冒険家エリック・ラーセンたちとカナダ・ウィニペグの凍結湖で極地トレーニング。5月は人力車を引いて、地元秋田一周。考えてみると遠征に年中出ていてはお金がある訳がない。この状態から大金を作るのは、全くバカげているように思えた。今まで以上に忙しさが加速した。ストレスで慢性じんましんが再発。全身が発疹で膨れ上がりながらも、抗アレルギー薬を貪り、日本中を駆けずり回る。
目処がたったのは出国の数日前。その間も、ソリ引きを想定したタイヤ引きトレーニングを荒川河川敷で欠かさなかった。河川敷に行くには工場地帯を、タイヤを引いて通過する。始めは気味悪そうな目で見ていた工場のおやっさん達だったが、日が経つにつれ、”今日もガンバっているな、見ると元気になるよ。”と声を掛けてくれるようになった。
南極点までのルート(南極大陸地図は(公財)日本極地研究振興会が提供) |
資金を確保し、装備品も揃い、体力もつけた。舞台は整った。遠征の概要に着いて説明する。南極大陸ロンネ棚氷海岸線から南極点までの約900キロを単独無補給でソリを引いて歩く。このルートは主要ルートのうちの1つであるが、最も主流なヘラクレス入江海岸線からのスタートに比べると、挑戦者はグッと減る。チームでも単独でも日本人の挑戦者はまだいなく、日本人初ルートという分かりやすいタイトルも付けられる。単独無補給の達成者はわずかに2人のみ。想定では40日間の行程を見込み、正月に南極点に到達できる予定だが、念のために最大50日分の食料を積み込んだソリは110キロほどの重さになった。僕が目指すのは白瀬ルートでの南極点到達だが、実現するには一度南極点に立って実力を証明する必要があると感じていた。
南極にあるベースキャンプ・ユニオングレイシャーに到着したのは11月19日。ベースキャンプからロンネ棚氷海岸線までの飛行機が悪天候のためになかなか飛ばず、スタートに降り立ったのは23日のことだ。海岸線と言っても、氷が海岸線から海側に遠く氷があるので360度何もない。自分を残し、プロペラ機は去っていく。コンパスで方向を確認すると即座に歩きだす。子供の頃から夢見た南極。果てなく続く雪原(ゆきはら)をいま歩いている。極地冒険を本格的に始めて5年。不器用な自分は随分と時間がかかったけれど、憧れの雪原を踏みしめている。大気に降り注ぐダイヤモンドダストが照明。ギラギラと光を反射する氷雪が舞台だ。レッドカーペットを歩くよりもずっと豪華な道だ。夢は叶うんだ。
始まりは実に順調だ。行動時間5時間より始め、12時間まで段階的に伸ばしていく。ソリも滑らかに進む。1週目で1日20キロ近い距離を稼ぎ出していた。このまま南極点まで駆け抜ける事に絶対の自信を持っていた。異変が起こり始めたのは7日目からだ。ホワイトアウトに合わせてドカ雪が降る。夜中に起きて(白夜なので時計上での真夜中でしかないが)、雪かきをしなければテントがつぶれそうだ。積雪があってもペースが変わるほどではない。ところが毎日の積雪が止まらない。ロンネ棚氷方面は積雪が多い地域だが、今シーズンは異常だ。雪量は日毎に増す。ソリの腹が雪面を擦りだした途端にペースが落ち始める。まだ雪は止まらない。舟体が完全に埋まり始めた21日目。時速0.8キロのワーストレコードを叩き出した。食料と燃料が減っていくので20キロ以上軽くなっているのに関わらずだ。無理に引くと腰を痛めて継続不可能になりそうだ。チームなら交代でラッセルできるが僕は独り。全力で引いてもソリが進まないどころか、ソリの重さに負けて自分が前のめりに転ぶ始末。顔中雪まみれになりながら唇を噛む。実現の為にどれだけ尽力してきたと思うんだ。なぜ自分ばかりこんな目にばかり合うんだ。僕が何をしたっていうんだ・・・。
風雪の中の休憩 |
食料が日々減る。それをただ見ている事しかできない。どんなに時間がかかっても50日間で絶対行ける自信があった。自信が日々なくなる。ホワイトアウトで1週間、太陽を見ない事もあった。プレッシャーから不眠症になった。疲れているのに全く眠れない。350km地点で必ず通るチェックポイントに到達したのは31日目の事だ。20日かからない予定だった場所だ。残りは550キロあるが、もし雪が降らなければ無補給で到達できるだろう。もし雪が止まなければ食料が途中で尽きる。一か八かに賭けるのか。道中で1番の決断を迫られた。
食料が尽きる可能性を感じ、ここにある食料庫から追加で食料を受けることにした。これで無補給というタイトルは消える。追加食料を持とうとする手が震える。悔しい、悔しい。こんな例年にないことで意志を変えなければならない。自分が何を目指すべきかと考えていた。今は意固地に目標を押し通すべきじゃない。絶対に南極点に辿りついて白瀬ルート実現の道標にする事がなすべき事だ。達成するのとしないのでは全く違う。着くんだ、南極点。この悔しさを忘れなければそれでいい。
マスクで凍結した呼気 |
残りの550kmは24日間で駆け抜けた。食料を追加した分だけペースが少し遅くなったが、ほぼ予定どおりの行程だ。結果的に雪が降らなかったからだ。後半は寒波が来た。南極点に近づくと通常は南極滑降風のカタバ風は弱まるが、一切、弱まらなかった。-40度以下の北極圏で一度もならなかった凍傷を顔に受けた。極点にはALEの民間キャンプがあるが19日にシーズンオフで完全に閉鎖すると連絡があり、それまでに到着する必要があった。最後は制限時間との戦いだ。このシーズンは僕が最後の南極点到達者になった。僕の後ろにもコンビが歩いていたが、強制ピックアップになった。知る限りヘラクレスとメスナーから単独で8名が挑戦したが、達成したのは僕を含め、わずかに3名のみ。ALE側から審査があり達成できる実力者しか挑戦できない南極では通常でない。
南緯90度をさすGPS |
南極点に着いたのは僕の時計で1月16日。GPSの数字が南緯90度を指す。今まで写真で見たことしかなかった場所。南極点はプラトーに位置する。真っ平らな雪原に各国の国旗がたなびく。雲ひとつない南極晴れ。世界の果てに僕は立っている。感動はない。喜びよりも白瀬ルート実現のでっかい夢がムクムクと湧き上がってくる。もっと高い目標にだって手が届く。無補給ではなくなったが、後悔は何1つとしてない。様々なトラブルが僕を成長させてくれたからだ。到達した今だから言える。ドカ雪がなければ余裕で達成してしまっただろう。だが、それでは成長がない。何の痛痒もない遠征より、痛みを伴う遠征の方がずっと良い。僕は強くなれたと実感できた。
民間キャンプから南極点にあるアムンゼン・スコット基地の見学ができる。その誘いを断った。キャンプマネージャーは”断った奴は初めてだ。どうして?”と言う。僕は答える。
「白瀬ルートを実現させて、必ずここに帰ってくる。見学はその時の楽しみにとっておく。」
ここは通過点だ。努力すれば、必ず白瀬ルートは実現できる。僕はそう信じている。
阿部雅龍(あべ まさたつ)プロフィール秋田県出身。秋田大学在校中から冒険活動を開始。 100年前の同郷の探検家白瀬矗中尉の足跡を伸ばしての人類未踏破ルートでの南極点徒歩到達を目指す。 21歳より冒険活動を開始。著書に学校推薦図書『次の夢への一歩』角川書店がある。 普段は資金稼ぎとトレーニングを兼ねて浅草で人力車業を営む。 |