南極さんぽ -Oh the places we can go!- #1

 林 由希恵

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林プロフィール

Neko Harbour(ネコ・ハーバー)

凍った斜面をなれない長靴で上ってきて上気した私の頬に冷たい風が心地よく感じる。眼下には海になだれ込む氷河と無数の氷山が浮かぶ入り江が見える。ホームに暮らす年老いた祖父はベッドの上から一言、「見てこい」と私を送り出した。はじめ眼前に広がる光景にキョロキョロと落ち着かなく動いていた私の目がそのうち一点に定まり、意識的にゆっくりと瞬きをするごとに少しずつその視点が移動していくようになった。見てこい、なんておもしろいことを言うなおじいちゃん、と思っていたが、「これは大変だ、、、」と思った。捉えきれるのか?と。

南極の景色は広い。それは360度のパノラマだけでなく足元から頭の上の雲と空までも広がっていて、まるで自分が異世界の球体の中にいるようだ、と思った。 ―私は、いま、南極を見ている。そう思ったネコ・ハーバーでの10年前のあの瞬間(とき)をいまだに鮮烈に思い出すことができる。

丘の山頂部より氷河を見下ろす
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ネコ・ハーバー の地図をみる

ネコ・ハーバーとは?

「ネコ・ハーバー(湾)」という名前を聞くと、日本人の私たちは「ん?猫?」と思ってしまいがちですが、猫ではなく、ノルウェーの捕鯨船「ネコ号」にちなんでつけられた名前です。ネコ湾に上陸するのは11月から3月、日本では冬ですが、南極は夏の盛りです。海氷が融け、耐氷船が上陸地点に近づけるのは10月の半ばから。さらに、夏の初めは気候が安定しないため、船外に出られないことも多くあります。

上陸地点よりネコ・ハーバーを眺める
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ペンギンたちもやってきます

船を沖に停泊させて、防水のパンツと防水のジャケットを着こみ、10人乗りの小型船で上陸をしますが、ネコ湾の上陸地点はすぐ横に大きな氷河がせり出していて、しかもその氷河は頻繁に崩落を起こすことで知られています。そのために、崩落による津波を警戒して、小型船から降りたら浜辺の上の高台まで迅速に移動してもらうことが必要です。一抱えもある花崗岩質の岩が多く転がる浜辺を気を付けて歩いていきますが、私たち人間が「ここなら歩きやすいな」と思うルートはペンギンにとっても歩きやすいらしく、時折、向こうからやってくるペンギンに道を譲りながら、散策を始めます。

海岸より小石を営巣地点まで運ぶジェンツーペンギン
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10月~11月にはまずはオスのペンギンたちが上陸してきて、メスを迎えるための巣作りを始めます。南極には木の枝や生い茂る草がありませんから、ペンギンたちは小石で巣をつくります。南極の初夏にはちょうどいい小石を奪い合ったり、留守中に隣の巣から盗んで自分のものにするペンギンたちのコミカルな様子があちこちで見られます。

極地ガイドの仕事とは?

ジェンツーペンギンの営巣地と氷河の壁面を眺める
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上陸したら、小高い丘を登り、ジェンツーペンギンの営巣地にたどり着きます。ぬいぐるみのようなふくよかなフォルムのジェンツーペンギンは愛らしいながらも、その顔のまなざしは鋭く、厳しい自然の中で生き抜こうとする気迫すら伝わってきます。

極地ガイドの仕事とは、もちろん安全にリスク管理を怠らず、滞在をよくするお手伝い…でもありますが、一番重要な存在意義は「そこにある自然と生物すべての環境保護と生態系の維持」することにあります。いわゆる、極地の交通整理や取り締まりをして秩序をまもる警察官のような役割をしています。

多くの人たちに、変わらない自然と環境を楽しんでもらうためにも、そこに暮らす生物たちにストレスをかけない観光活動を心がけています。

ネコ・ハーバーからの景色とは?

南極大陸上陸地点であるネコ・ハーバーの景観湾の中央部より
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ネコ湾上陸地の一番高いところからは「氷河」の名の通り氷の河が海に流れ込む光景を見下ろすことができます。純白の氷河を眺め、ペンギンたちの鳴き声を聞きながら、遠くからは氷河の崩落音がたまに響いてくる…。そんな時間を過ごすことができる場所です。

ヒョウアザラシとの出会い

そろそろと近づくと、眠りから覚め大きく口を開けて威嚇をするヒョウアザラシに、小型船クルージングでは出会うこともあります。足元の赤い色は実はオキアミをたくさん食べた後の排せつ物の色。ヒョウアザラシはペンギンを捕食することでよく知られていますが、オキアミが豊富な南極海では主食はほぼほぼオキアミやイカ、魚類です。稀にほかのアザラシの幼獣を襲うこともあります。
オスのほうがメスに比べて体は小さく、大きなメスは体長4メートルになることもあります。遠くから氷の上に横たわるヒョウアザラシを見つけて、近寄るとその大きさに驚くこともしばしば…。

氷上のヒョウアザラシ
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じゃれてくる?好奇心旺盛な一面も

興味をもってボート近づいてきたヒョウアザラシ
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水の中では大きな体を蛇のようにくねらせて自由自在に動き回る様子が見られます。南極では人間や船を見かけることが少ないため、興味をもって向こうから寄ってくることがよくあります。大型犬がおもちゃのゴムボールに穴をあけてしまうように、ボートのゴム部にじゃれつきに来たときは、要注意。襲い掛かる、というのではなく、じゃれつかれる、という形容がぴったりくるそんな一面を見ることができます。

役割ごとに使い分ける歯

ペンギンを捕まえるための鋭い前方の歯と、海水とともに口に含んだオキアミを濾しとるための網状の歯(Sieved Teeth)が見られます。メスの成体の頭の大きさはヒグマより大きくなることも。

南極では、おなかがいっぱいで氷上にのんびりと体を横たえて消化を促すアザラシたちの昼寝風景が見られます。強い日差しの下、体から湯気を立てて軽いいびきをかきながら寝転ぶ様子を見るたびに、サウナや温泉の寝転び所に寝転ぶ私たちの姿と重なります。

恐竜のような大きな頭のヒョウアザラシ
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待機中のボートに興味を持つヒョウアザラシ

私にとってのネコ・ハーバーとは

上陸地ではペンギンたちの痴話げんかや世間話に花を咲かせるようなにぎやかなしゃべり声に耳を傾け、小型船クルージングでは氷山の砕ける音や、ヒョウアザラシのいびき、クジラの潮を吹く音に耳を澄ます。肌で感じ、目で見て、耳で聞き、ペンギンの営巣地やクジラの潮のにおいをかぐ。活動を始めた1時間前までは青空だったのに、今では曇天の空から細やかな雪が舞い散り始めて、上を見上げると口の中で溶ける淡雪が感じられる。五感で見るーそういうことかと腑に落ちてから10年以上の時が立つ。ネコ・ハーバーに戻るたびに、初心に戻ることができる、そんな思い入れのある場所である。

ザトウクジラからのバイバイ
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執筆者紹介

林 由希恵

極地専門の探検船(観光・調査補助等)オペレーターであるQuark Expeditions社にて1年のうち南極5か月+北極5か月間に及ぶ期間を極地の専門ガイドとして両極で過ごしている。IAATO(国際南極ツアーオペレーター協会)やAECO(北極クルーズ旅行運営協会)の認定ガイドとして経験を積み、2019年にはPolar Tourism Guides Associationの日本人唯一のSenior Polar Guide(上級極地ガイド)に認定された。主な活動域は南極半島・亜南極の島々、北極4圏(ロシア、ノルウェー、グリーンランド、カナダ)。