観測隊

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シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第5回

雪の吹き溜まりから建物を守る 国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二 1. 第1次隊の建物  第1次南極観測隊は昭和31年(1956年)11月に「宗谷」で南極に向けて出発しましたが、南極観測隊が使う建物を検討したのは、主に日本建築学会から選ばれた南極建築委員会の方々でした。強風への構造的な耐力や暖房の熱損失などを考慮し、図1のような斬新な案も検討されましたが、隊長・副隊長の強い要望もあり、

シリーズ「南極観測隊エピソード」第5回

南極観測と朝日新聞その5 幸運の1次隊、不運の2次隊 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治  日本の南極観測の産みの親、矢田喜美雄記者と早大山岳部が東大スキー山岳部の策謀によって南極に行けなくなった状況は、前回記した通りである。しかし、それは、あくまで裏の事情であって、国民は知らなかったことである。  国民が知っている南極観測の実現までのストーリーは、朝日新聞の提案にまず学界が賛同し、政界・官界も乗って

シリーズ「南極観測隊エピソード」第4回

南極観測と朝日新聞その4 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 矢田喜美雄記者と早大山岳部を追い出した東大派閥? 敗戦後、僅か10年、まだ貧しかった日本が、国際地球観測年(IGY1957~58年)に参加して南極に観測隊を送ろうと提案し、実現させたのは朝日新聞の矢田喜美雄記者だったことは前回、記した。 南極観測隊は、観測を支える科学者たちが約半数、生活面を支える設営部門の人たちが約半数、といった構成になっ

シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」 第5回

南極での風力発電機の利用 国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二 1.第1次隊が持ち込んだ風力発電機 第1次隊が南極に出発する年の昭和31年2月、南極地域観測機械関係準備委員会が日本機械学会に発足しました。この組織は、南極特別委員会の協力要請により遅ればせながらできたもので、民間会社の協力を得て、機械関係のいっさいの企画・準備を行い、観測隊に様々な製品を持たせました。そこで決めた方針は、①

シリーズ「南極観測隊〜未知への挑戦」 第3回

南極海に中深層巨大生態系はあるか? 国立極地研究所名誉教授 内藤 靖彦 科学・技術が高度に発達した21世紀は宇宙の時代と言われています。お蔭で、我々は月の裏側から宇宙の果てまでも、さらには宇宙から地球の隅々までも見渡すことができます。まさに我々は宇宙の時代に生きているといえるでしょう。面白いことに、多くの宇宙飛行士は宇宙から見た地球は「青い」と感動しています。遠くから見ると「地球は青い」ということ

シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第4回

雪氷上滑走路 国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二 1.南極点への初飛行 1903年(明治36年)のライト兄弟の初飛行から26年後の1929年(昭和4年)11月29日、米国のリチャード・バードは、南極点上空から米国国旗を落下し南極での米国の存在をアピールしました。上空からとはいえ南極点に到達したのは1912年(明治45年)のスコット以来の出来事でした。英国人のスコットは、ノルウェーのアム

シリーズ「南極観測隊エピソード」第3回

南極観測と朝日新聞その3 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 日本の南極観測の「恩人」を一人挙げよ、と言ったら、みなさんは誰を挙げるだろうか。第1次から第3次まで隊長を務めた永田武・東大教授を挙げる人が多いかもしれない。あるいは、第1次越冬隊長の西堀栄三郎氏か、あるいは、永田隊長を支えて日本の科学界をまとめた当時の日本学術会議会長、茅誠司氏か、あるいはまた、南極観測を国家事業にした当時の文部大臣、松村

シリーズ「南極観測隊〜未知への挑戦」第2回

雲はつかめるかー採餌記録計のはなし 国立極地研究所名誉教授 内藤 靖彦 近年ヒトが排出するCO2のために気候が大きく変わった。その影響は海洋の生き物にも及んでいる。そして海洋生態系もこの影響を受けている。ここでは海洋生態系と一言で済ましているが、その中身は極めて複雑である。簡単にいうと海洋で生活するすべての生き物の「食いつ食われつ」の相互関係が変わるという話である。とは言っても、膨大な量の海洋生物

シリーズ「南極観測隊エピソード」第2回

南極観測と朝日新聞その2 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 白瀬探検隊に対して国家はなんの支援もせず、大隈重信と朝日新聞の支援でやっと実現できたことは前回記した。白瀬隊の希望していた軍艦「磐城」の払い下げを海軍から断られるなど、いろいろとあって、1910年8月の出発予定を大幅に遅らせ、11月に「開南丸」でようやく南極へ向けて、出航できたのである。 その間、朝日新聞社との間も決してスムーズではなく、ギ

シリーズ「南極観測隊の生活を支える技術」第3回

橇(そり) 国立極地研究所極地工学研究グループ 石澤 賢二 2トン積み木製橇 日本の第1次南極観測隊を乗せた砕氷船「宗谷」が南極に向かう1年前の昭和30年(1955年)の初夏、西堀越冬隊長は、橇の試作を依頼するため高速艇などを製作していたある小さな会社を訪れました。西堀さんの要求は、南極の荒れた氷原で使う2トン積み橇を重量200kg以下で作ってもらいたいというものでした。その会社で設計を担当した堀

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