シリーズ「南極観測隊エピソード」

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シリーズ「南極観測隊エピソード」 第9回

南極観測と朝日新聞その9 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 新観測船「ふじ」で南極観測が再開!  1965年11月8日の東京港は、新観測船「ふじ」が4年ぶりに南極に向かう出港式に大勢の人たちが詰めかけ、大変な賑わいだった。同行記者に選ばれた私の見送りにも、新婚2か月の妻をはじめ、両親や兄弟姉妹、それに多くの友人たちの姿もあった。  やがて、私は船上に、見送りの人たちは岸壁に、と分かれ、テープの両端を

シリーズ「南極観測隊エピソード」 第8回

南極観測と朝日新聞その8 4年間中断して新造船「ふじ」で再開へ 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治  日本の南極観測事業は、観測船「宗谷」の時代が1次隊から6次隊まで続き、「宗谷」の老朽化でいったん中断し、昭和基地は第5次越冬隊によって戸締りをされ、無人の状態に置かれていた。  その時は、再開されるかどうか決まってなかったが、このまま南極観測をやめてしまうのは残念だという声が各方面から沸き上がり、新し

シリーズ「南極観測隊エピソード」 第7回

南極観測と朝日新聞その7 4次越冬の福島伸隊員の遭難死 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治  生きていたタロ、ジロを発見した第3次隊の活動をピークに、南極観測事業に対する国民の関心もしだいに冷めてきて、朝日新聞社も特派員を同行させることを、第4次隊をもって一旦打ち切り、第5次、第6次隊には同行記者を送らなかった。  第4次隊に送り込まれた朝日新聞の同行記者は犬養堯記者で、優れたセンスを持った名文記者と

シリーズ「南極観測隊エピソード」第6回

南極観測と朝日新聞その6 生きていたタロ、ジロ 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治  第2次観測隊を乗せた「宗谷」が氷に閉じ込められて動けなくなり、米国の観測船「バートンアイランド号」が救出に来てくれたが、それでも昭和基地には近づけず、結局、第2次隊は「本観測だ」としていた越冬隊を残すことができなかったことは前回記した通りである。  その教訓を生かして、第3次隊は物資の輸送方法を1,2次隊とはガラリと

シリーズ「南極観測隊エピソード」第5回

南極観測と朝日新聞その5 幸運の1次隊、不運の2次隊 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治  日本の南極観測の産みの親、矢田喜美雄記者と早大山岳部が東大スキー山岳部の策謀によって南極に行けなくなった状況は、前回記した通りである。しかし、それは、あくまで裏の事情であって、国民は知らなかったことである。  国民が知っている南極観測の実現までのストーリーは、朝日新聞の提案にまず学界が賛同し、政界・官界も乗って

シリーズ「南極観測隊エピソード」第4回

南極観測と朝日新聞その4 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 矢田喜美雄記者と早大山岳部を追い出した東大派閥? 敗戦後、僅か10年、まだ貧しかった日本が、国際地球観測年(IGY1957~58年)に参加して南極に観測隊を送ろうと提案し、実現させたのは朝日新聞の矢田喜美雄記者だったことは前回、記した。 南極観測隊は、観測を支える科学者たちが約半数、生活面を支える設営部門の人たちが約半数、といった構成になっ

シリーズ「南極観測隊エピソード」第3回

南極観測と朝日新聞その3 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 日本の南極観測の「恩人」を一人挙げよ、と言ったら、みなさんは誰を挙げるだろうか。第1次から第3次まで隊長を務めた永田武・東大教授を挙げる人が多いかもしれない。あるいは、第1次越冬隊長の西堀栄三郎氏か、あるいは、永田隊長を支えて日本の科学界をまとめた当時の日本学術会議会長、茅誠司氏か、あるいはまた、南極観測を国家事業にした当時の文部大臣、松村

シリーズ「南極観測隊エピソード」第2回

南極観測と朝日新聞その2 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 白瀬探検隊に対して国家はなんの支援もせず、大隈重信と朝日新聞の支援でやっと実現できたことは前回記した。白瀬隊の希望していた軍艦「磐城」の払い下げを海軍から断られるなど、いろいろとあって、1910年8月の出発予定を大幅に遅らせ、11月に「開南丸」でようやく南極へ向けて、出航できたのである。 その間、朝日新聞社との間も決してスムーズではなく、ギ

シリーズ「南極観測隊エピソード」第1回

南極観測と朝日新聞その1 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 南極観測と朝日新聞社との関係は、明治時代に朝日新聞社が白瀬南極探検隊を支援したことに始まる。 白瀬矗(しらせのぶ)という人は、秋田県金浦村(現・秋田県にかほ市)のお寺の住職の息子で、子どものころ寺子屋のお師匠さんからコロンブスやマゼランら探検家の話を聞いて、自分も探検家になろうと決心した。目指すは北極圏。そのため、熱いお茶やお湯は飲まない、