紅は黄茅白葦に在っても隠れなし 山田 恭平(第59次南極地域観測隊越冬隊員) 筋力はないし、持久力もない。頭が回るわけでもないし、人付き合いが良いわけではない。最後がいちばん苦手だ。それでも南極観測隊員だ。 そんな淀んだ胸懐で、暗く冷たく不安定な南極で過ごすためには、心を繋ぎ止めるものが要る。舫が要る。灯台が要る。特に旅に出るとなれば、戻るために繫ぎ止める存在が必要だ。 写真1:内陸旅行中の薄
南極観測と朝日新聞その16 アムンセン・スコット基地で極点旅行隊を出迎える 柴田鉄治(元朝日新聞社会部記者) 第9次越冬隊の村山雅美隊長ら11人の「極点旅行隊」に、朝日新聞の高木八太郎記者は村山隊長の意向で同行できなくなったが、南極点で私が旅行隊を出迎えるという計画のほうは、順調に進んでいた。 米国の駐日大使館に「極点旅行隊の南極点到達を報道するため、朝日新聞社の柴田鉄
南極観測を支える海上輸送 その4 初代「しらせ」の運航 石沢 賢二(国立極地研究所極地工学研究グループ) 1.「ふじ」後継船の計画 「ふじ」は、第7次隊から24次隊まで、合計18回の南極行動を実施しました。初期の7次から11次行動までは5回連続して昭和基地に接岸することができました。ところがその後、厳しい海氷に遭遇し、第19次隊まで接岸できず、すべての物資と人員の輸送は、
南極観測と朝日新聞その15 8次夏隊と9次越冬隊のこと 柴田 鉄治(元朝日新聞社会部記者) 私が同行した第7次観測隊の隊長だった村山雅美氏は、『ミスター南極観測』とも呼ばれていた人だ。日本でも有数な山男で、日本山岳会のマナスル登山隊に参加して登頂し、帰国してすぐ第1次南極観測隊に合流した人だ。 本番の第2次越冬隊長に決まっていたのだが、不運の2次隊は観測船「宗谷」が氷にとざれて昭和基地に近づけず、
南極観測を支える海上輸送 その3 日本の南極観測船 石沢 賢二(国立極地研究所極地工学研究グループ) 1.国際地球観測年(IGY) 世界各国が国家事業として南極観測に力を入れだしたのは、国際地球観測年(International Geophysical Year)という、国際科学研究プロジェクトが契機でした。このプロジェクトは、1957年7月1日から1958年12月31日までの期間中に、オーロラ、
南極観測と朝日新聞その14 7次隊の帰途にあったこと、その3 元朝日新聞社会部記者 柴田鉄治 第7次観測隊が昭和基地の再建を立派に成し遂げ、帰途に就いたとき、ペンギン・ルッカリー(生息地)を見学したことを「その1」とし、ソ連のマラジョウジナヤ基地と「オビ号」を見学したことを「その2」として前号までにその概要を記した。 実は、もう一つ、その3があったのだ。ソ連基地と「オビ号」を訪れて気をよくした私
南極観測を支える海上輸送 その2 英雄時代以降の南極探検船 国立極地研究所極地工学研究グループ 石沢 賢二 1.ウェッデル海でのドイツの活動 1.1 フィルヒナー隊の苦闘 前回は、英国のシャックルトンが率いた「エンジュランス」号がウェッデル海で氷に閉じ込められ沈没した話を書きましたが、それに先立つ1911~1912年(明治44~45年)にも同じウェッデル海で閉じ込められた船がありました。ドイツの
南極越冬隊員の一番の楽しみは食事 第59次南極地域観測隊員インタビュー 越冬隊調理担当隊員 北島隆児 三原光司 北島隆児隊員(昭和基地にて) 三原光司隊員(昭和基地にて) 南極観測隊員に応募したきっかけ 福西 本日は南極への出発準備でお忙しい中、インタビュー時間を作ってくださりありがとうございます。第59次南極地域観測隊の越冬隊で調理を担当されるお二人ですが、最初に南極観測隊員に応募することになっ
オーロラの新たな謎に挑む 第59次南極地域観測隊員インタビュー 越冬隊一般研究担当隊員 内田ヘルベルト陽仁 情報処理棟屋上で高速カメラの絞りの調整(昭和基地にて) 南極に行くきっかけ 福西 まず、南極に行くことになったきっかけをお聞かせください。 内田 最初のきっかけは国立極地研究所の片岡龍峰先生とお話しする機会があったことです。私は2015年の日本地球惑星科学連合の大会で研究発表したのですが、そ
飛島建設株式会社~昭和基地の夏の建設現場を担う~ 第59次南極地域観測隊 夏隊員 近藤一海 インタビュー 昭和基地管理棟前の19広場で 昭和基地では南極の夏に当たる12月から1月の期間に様々な建設作業が実施されます。しかし南極という特殊な場所であるために、建設機械や建設資材は限られており、作業員も建設作業の経験がない南極観測隊員としらせ乗組員に限られます。こうした厳しい制約の下で、安全に作業を進